<未来に伝える沖縄戦>輸送船員として徴用 佐久川政喜さん(89)上


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佐久川政喜さん(左)が語る戦争体験に、熱心に耳を傾ける幸良桃花さん(中央)と遊佐璃玖君=9月29日、読谷村比謝

 読谷村比謝に住む佐久川政喜さん(89)は、沖縄戦が始まる2年前に徴用され、機関砲などを運ぶ輸送船の船員として働いていました。そのため1944年10月10日の米軍による大規模な空襲「10・10空襲」は、南大東島沖の船上で経験しました。その後、家族の様子を確認するため沖縄に戻った際、戦渦に巻き込まれます。砲弾が飛び交う中、山中をさまよい続けた佐久川さんの戦争体験を、読谷村立古堅中学3年の幸良桃花さん(14)と同校1年の遊佐璃玖君(13)が聞きました。

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 私は1925年10月20日に読谷山村比謝で生まれ、両親と祖母、兄、妹2人と暮らしていました。学校は古堅尋常高等小学校(現村立古堅中学校)に通いました。
 43年の夏ごろでした。輸送船の船員として徴用されて、鹿児島市内で1カ月、船員としての訓練を受けました。平時であれば訓練に1年間が必要だったけど、戦争の激化で人が足りなくなって、1カ月で終わらせているということでした。訓練後は大分県の民間船「佐賀関丸」に乗って働いていました。奄美大島の瀬戸内町にあった海軍基地を拠点に、喜界島や南大東島の陸戦隊に機関砲や弾薬、食糧を輸送していました。輸送時は護衛艦が輸送船を守り、8~10隻の船団を組んで移動していました。
 あれは初めて南大東島を訪れた時でした。先頭を航行していた佐賀関丸のいかりを引き上げるウインチが故障して、別の船が先に岸壁に着けました。南大東島は港がなかったから、陸からクレーンで荷揚げをしていた。するとその船に、米軍の潜水艦が発射した魚雷が命中しました。故障がなければ、佐賀関丸がやられていたんだ。「人の運命はどうなるか分からない」と感じましたね。

 《佐久川さんたちが南大東島に2度目の輸送に向かう途中の海上で、米軍による「10・10空襲」が佐賀関丸などの船団を襲います》

※続きは10月10日付紙面をご覧ください。