大阪・関西万博のプロデューサーとして会場に河瀨館を建設する役割をいただいている。このプロジェクトは奈良県の十津川村と京都府の福知山の廃校になった中学校と小学校を丁寧に解体し、その資材を活用して新しい3棟の建物に生まれ変わらせるチャレンジングなものだ。その中で、エントランスと森の集会場と名付けた2棟は十津川村の折立(おりたち)中学校の南棟と北棟にあたる。
この折立という地域は、12年前の紀伊半島大水害で崩れた山の土砂が川を堰(せ)き止め、橋が流されてしまう大きな被害を経験した地域だ。こういった山が崩れる状態を海のない奈良県の山間部では「山津波」と呼んで恐れている。120年ほど前にも村史に載るほどの山津波があった。集落が壊滅状態となり、復興は難しいと悟った村人たちは北海道に移住する計画を立て、実行した。それが現在の北海道にある新十津川町である。
お盆を過ぎればめっきり涼しくなるこの集落への旅を、春頃に計画していた。しかし8月も後半となる24日に新千歳空港に降り立って屋外に出ると、思っていた涼しさはどこへやら。体感としても奈良より暑く感じる。携帯のお天気アプリで試しに沖縄の気温を検索する。と、32度と表示された。北海道の新十津川町は34度だから、何かの見間違いかと思ったが、観測史上記録に残る暑さだと役場の担当者は言う。クーラーがない学校などは、休校になったと聞いた。
新十津川町では奈良県の十津川村を「母村」と呼び、ご先祖さまの村だと認識している。庁舎のエントランスには十津川村の杉を使用している。町章と村章も全く同じマークである。町にある開拓記念館では、いかにして奈良の南の山深い村から遠い北の大地である北海道に移住してきたかが詳しく説明展示されていて、胸に迫るものがあった。
ご先祖さまの生きた土地を離れ、開拓者として見知らぬ土地に入り、鬱蒼(うっそう)とした原生林を伐採するところからはじめ田畑を開拓すること。そこには、どれだけの忍耐力が必要であろうか。想像に絶する人々の苦労は、町の真ん中を流れる石狩川が母村に流れる十津川を彷彿(ほうふつ)とさせてそこにあることを想えば、その光景の中に故郷を思って、開拓に精を出した人々の姿が思い浮かぶ。こうして遠く離れた土地がひとつに繋がり、交流をしてゆくこと。それらの中にある物語に気づけば、日本という国の多様な文化がもっと深く感じ取れるだろう。
近頃、沖縄とのご縁をこうして持たせていただいて、北海道で開催された「どさんこしまんちゅプロジェクト」なるもののフォーラムに沖縄側のゲストとして登壇する機会をいただいた。沖縄と北海道の企業が協力し、地域の活性化を目指すプロジェクトで、コロナ禍で中断していたが、以前より沖縄と北海道で開催地を移してフォーラムを毎年開催していたのだという。今年のご縁は沖縄から来られていた沖縄ツーリストの東良和会長。初対面にして意気投合。この後、沖縄から秋の奈良への旅を企画していただくこととなった。 (映画作家)
(第2、4火曜日掲載)
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「とうとがなし」…奄美地域で「ありがとうございます」という意味で使われているあいさつ。題字は筆者。