<金口木舌>「校正の神様」にしかられる


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 先日、へまをやらかした。うっかり財布をなくしたのだ。どこへ落としたのか皆目見当がつかない。銀行のキャッシュカードもろとも行方知れず。お金もけっこう入っていた

▼当方の周囲には毎週のように「財布がない」と騒ぐ者がいる。慣れっこなのだろう、動ずるふうでもない。小心者は困り果て、交番と銀行に駆け込んだ。驚いたのはここからだ
▼キャッシュカードを再発行してもらうため、身分証明書として運転免許証を銀行窓口に提示したところ、行員から「名字の1字が旧漢字のようだ」と指摘された。事実を確認したいという
▼半信半疑のまま住民票と戸籍謄本を役所から取り寄せたら、行員の言う通りだった。わずかな違いだが、おろそかにはできない。長年の思い込みをただされた。これでは「校正の神様」にしかられる
▼「神様」とは永井荷風らも頼ったという神代種亮(こうじろたねすけ)のこと。号は「帚葉(そうよう)」。誤字探しを落ち葉拾いに例えた。「暮しの手帖」編集者の花森安治はエッセーで「校正する者は自分の物さしで計ってはいけないのです」という神代の言葉を引いている。思い込みは禁物、襟を正したい
▼首里城焼失のショックで「読書の秋」をすっかり忘れていた。神様の声を感じながら読書を楽しもうか。その前に後日談。紛失から2週間を経て財布が帰ってきた。拾ってくれた人の恩も感じている。