<金口木舌> 戦争難民


社会
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 「僕は戦争難民なんだ」。クバ笠をかぶり、平和運動の現場に立つ有銘政夫さんはさまざまな場面で語った。サイパンで生まれ、戦後に旧越来村に帰ると字森根の実家は嘉手納基地の中だった。反戦地主として違憲訴訟を闘った。語りや表情は穏やかでも目の奥には鋭い光があった

▼25日に亡くなった有銘さんの証言は宜野湾市史にも記録されている。高校時代から選挙演説の「追っかけ」をした。教師、青年団員として1950年代から関わった平和運動は「必然的に私の生活そのものになった」と語る
▼伊佐浜土地闘争で米軍の「銃剣とブルドーザー」により家や田畑を取り上げられた人々とともに闘った。「生活を始めたところをもう一回追い出される。戦争を2回味わうのと同じだ」と寄り添う
▼復帰運動を支えたのも有銘さんら教職員だ。来年、復帰から半世紀を迎えるが米軍基地の過重負担は変わらない。日本国憲法の下への復帰という県民の願いはかなえられたのか
▼97年の県収用委員会の公開審理では「憲法9条に基づき、軍事基地や軍隊を拒否するのは当然だ」と述べた。憲法で保障される基本的人権が侵害されているとの訴えだ
▼「嘉手納基地が開放された時、僕の戦後は終わる」。有銘さんが語った未来はまだ来ない。戦後を終わらせ、平和な沖縄を実現するために、残された言葉をかみしめる。