<金口木舌>踏みにじられた心


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 30年以上前の沖縄市でのこと。通りを子ども2人が歩いている。手に持ったビー玉などの自慢だろうか。仲良しの話は尽きない様子だが、かたやうちなーぐち、こなた英語でのおしゃべりだった

▼しまくとぅばにまつわる体験を聞く本紙連載「想い語らな」に登場した音楽プロデューサーの備瀬善勝さん。あまりに不思議で、立ち止まったという。言語の壁を乗り越える子どもたちの柔軟さに目を見張った
▼さまざまな文化を受け入れ、発展させてきたチャンプルー文化を言い得たエピソードとも感じた。多様な価値観を認め合うおおらかさでもある。しかし、それは何でもかんでも受け入れるということではない
▼ヘリコプターの不時着、炎上事故を巡る米軍の対応である。原因も分からないまま飛行を再開した。こともあろうに発生地の東村を飛んだ。住民の感情などお構いなしである
▼事故機を搬出した現場では、たばこの吸い殻などが見つかった。被害を与えたとの感覚、引け目は一切ないはずだ。事故のあった11日、津堅沖でパラシュート降下訓練が強行された。およそ配慮はないのだろう。衆院選の公示翌日のことだった
▼「眼中人無し」とはこのことではないか。本来は牧草の茂る事故現場には、搬出時にできたわだちが残る。もろもろの対応、行動に多くの県民が気持ちや心を踏みにじられたと感じているはずだ。