<金口木舌>「霞が関文学」を終わりに


この記事を書いた人 琉球新報社

 「霞が関文学」とはよく言ったものだと、いまさらながら思う。文章をいじって別の意味に解釈できるようにしたり、中身を骨抜きにしたりする官僚特有の作文術のこと

▼一読して分かるようで分からない。文学としての面白みは皆無だ。行間から透けて見えるのは、肝心なことをうやむやにする省庁のご都合主義。しかし、今回は度が過ぎた。森友問題に絡む財務省の決裁文書改ざんである
▼事実隠蔽(いんぺい)のオンパレードだ。その責任を佐川宣寿前国税庁長官に押し付け「佐川氏の答弁との齟齬(そご)とか、誤解を招かないためにということが主な目的だ。忖度(そんたく)ではない」という麻生太郎財務相の釈明には合点が行かぬ。真に受ける人はおるまい
▼「誤解」には聞き覚えがある。沖縄戦の史実を歪(ゆが)めた2006年度の教科書検定意見「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある」だ。原案の作成者は教科書調査官という文部科学省のお役人。これも安倍政権下で起きた。誰に忖度したのやら
▼決裁文書の書き換えを命じられ、苦しんだという職員が命を絶った。閣僚や役人の答弁を聞く限り、痛ましい出来事と向き合っているようには思えない。知りたい事実は遠のくばかり
▼「霞が関文学」で物事をあいまいにするのは終わりにしよう。語るべき人が国会で証言するときだ。国民が首相や大臣の保身を許す段階はとっくに過ぎた。