<金口木舌>伝統の賞杯


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 日本人初のオリンピック選手として金栗四三(かなくりしそう)が出場したのは1912年のストックホルム大会だ。優勝候補に挙げられたが、厳しい暑さに倒れてゴールできなかった

▼前年に世界記録を出して挑んだ初の五輪での悔しさは、その後の生涯の原点となったのだろう。後にスポーツ振興に心血を注ぎ、日本のマラソンの父とも呼ばれた
▼暖冬といわれる今季だが、ひんやりとしてランナーには心地よい日和のおきなわマラソンだった。女子で9年ぶりに県記録が更新されるなど、好タイムが生まれた
▼金栗と沖縄のつながりを示すものがおきなわマラソンで引き継がれている。毎年、県勢1位の選手に贈られる「金栗四三杯」だ。前身の新報那覇マラソンに金栗が71年、「沖縄のマラソンの発展のために」と託す。金栗杯受賞者のタイムは次第に伸びていった
▼55年、第1回の新報那覇マラソンへの参加者は8人。完走は3人だったそうだ。今の大会規模を考えると、記録の伸びだけでなく、競技の普及、人気の高まりには目を見張るものがある
▼初挑戦で初完走した高等支援校の生徒たち。四半世紀の競技歴を締めくくる人。ランナーにとっては心地よい冷気に耐え、運営を支えたボランティアの人たち。取材中、胸が熱くなる場面がいくつもあった。出場者だけでなく、関わる人の数だけ生まれたドラマが大会を彩った。