<金口木舌>対馬丸の子どもたち


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 今春、那覇市内の小学校の文集を目にする機会があった。「那覇一の調理師になりたい」「水泳で九州大会に出場する」。希望にあふれ目を輝かせる子どもたちの姿が浮かんだ

▼太平洋戦争まっただ中の75年前、平和な日常を奪われた子どもたちがいた。1944年8月21日、1788人を乗せた「対馬丸」が長崎を目指し、那覇港を出発した。翌日夜、米軍潜水艦に撃沈され、分かっているだけで1484人が犠牲になった。半分以上が15歳以下だった
▼九州までは危険海域になっていたが、政府は住民の疎開を決めた。県内の国民学校に通う児童が乗船し、命を奪われた
▼「修学旅行にでかけるようなもんね」「雪も富士山も見ることができる」。対馬丸記念館に展示されている子どもたちの言葉。本土へ渡る期待がにじむ。館内はランドセル、賞状など遺品も展示されている。子どもたちの息遣いが伝わってくるようで胸が締め付けられる
▼「わたしたちは、生きたかった/おいしいものを食べたり/思いきり遊んだり/大人になって世の中で自分の力を試したり/すてきな相手にめぐり会ったり/わたしたちは生きたかった」。記念館に掲げられた詩の一節だ
▼ささやかな日常を根こそぎ奪うのが戦争だ。二度と繰り返してはいけない。「小桜の塔」の前で開かれた慰霊祭に参列し、改めてかみしめた。