<社説>施政権返還50年(1)「4・28」から70年 自己決定権確立の日に


社会
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 サンフランシスコ講和条約の発効から28日で70年を迎えた。日本の独立と引き換えに、沖縄と奄美、小笠原が日本と切り離され米国統治が始まった日である。

 沖縄はこの日を「屈辱の日」と呼んできた。自らの運命が日米両国によって決められたからだ。そして今年5月15日に沖縄の施政権が日本に返還されてから50年を迎える。しかし、施政権が返還されても米軍は駐留し続け、県民の人権と命が脅かされている。
 自らの将来を自ら決められない状態に終止符を打たなければならない。近い将来「4・28」を「自己決定権確立の日」と呼べるような日が来ることを期待したい。
 「屈辱の日」の源流に昭和天皇の意向がある。サンフランシスコ講和条約が締結される4年前、昭和天皇は御用掛だった寺崎英成を通じて、「主権を日本に残したまま」沖縄を「25年ないし50年、あるいはそれ以上」米軍に提供したいと提案した。
 主権を日本に残したままとしても、50年以上も日本から切り離すことは、「事実上、沖縄を捨てる」ことを意味すると指摘されている。天皇の提案が対日講和条約交渉に影響を与えたとみられる。
 講和条約第3条によって、米国は他国から干渉されず、沖縄に建設した基地を自由に使用する権利を手に入れた。日本政府も米国の沖縄統治を承認していた。
 ところで、沖縄を切り離す決定に沖縄側は蚊帳の外に置かれた。1951年9月のサンフランシスコ講和条約の締結を控え、日本復帰を求める声が沖縄で高まっていた。
 沖縄側は講和会議へ向け日本復帰を求める署名運動を実施した。署名運動は8月下旬に締め切られた。約3カ月で有権者の72.1%に当たる19万9356人が署名した。署名簿は嘆願書を添えてダレス米特使、日本の首席全権の吉田茂首相に送られた。しかし、切実な民意は講和会議に反映されなかった。
 「4・28」から20年間、米国の沖縄統治の基本政策は軍事行動の自由を確保することだった。その目的を達成するため強硬策と懐柔策を織り交ぜて沖縄を統治してきた。しかし、米国統治に異議を唱え、施政権返還を求める沖縄住民の抵抗によって次第に統治が困難になった。
 そこで72年に日本政府の同意を得て基地の自由使用権は手放さず、施政権だけを日本に返還することにした。日本政府は返還交渉に沖縄側を参加させなかった。「屈辱の日」と同様に「即時無条件全面返還」を求めた沖縄側の民意は顧みられなかった。
 地方分権改革によって国と地方の関係は「対等・協力」に改められた。沖縄に密接に関係する安全保障政策を決定する場に、重要なアクターとして沖縄県を参加させるべきだ。沖縄の将来は沖縄が決める。その決意を確認する日が「4・28」である。