<社説>琉仏条約「原案」 琉球の外交、今でも学びに


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<社説>琉仏条約「原案」 琉球の外交、今でも学びに
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 琉球国が1855年に琉仏修好条約を結ぶ際、フランス側に渡した国書や条約の原案とみられる文書が見つかった。東京都でのオークションに出品される。主催する東京古典会の関係者によると、国書にある「琉球国印」や内容などから原本の可能性が高い。

 琉球国は54年に米国、59年にオランダとも同様の修好条約を結んだ。当時の大国から琉球が国際法の主体である国家と見なされていた証しだ。
 欧米列強がアジアに進出する中、琉球は国内の平和維持に苦慮しながら外交権を行使していた。内容からは外交で危機打開を追求した姿が浮かぶ。台湾有事をにらむ軍備強化が進む中、県が地域外交を展開する今の沖縄と重なる。学べる点は多い。
 琉仏条約は両国人民の友好、商品の自由購入の保証、土地・家屋・船舶などをフランスが借りることなどを定め、琉球王国の印とフランス側代表ゲラン提督のサインがある。フランスは条約締結後、中国でのアヘン戦争でフランス艦船が限られる中、琉球との交易よりも日本との通商を優先し条約を批准しなかった。
 今回見つかった国書とみられる文書は、3隻の艦隊を率いて琉球を訪れたゲラン提督に琉球国代表が宛てた3通と、フランス皇帝ナポレオン3世に宛てた1通。専門家は、当時の日本では用いていなかった国印を琉球が先駆けて使い、国際社会で明確に国家意思を示していたと評価した。
 条約は11条だが、原案は10条で、調印までの外交交渉が条約内容に影響を与えた可能性がある。従来の通説は、圧倒的に強いフランスが一方的に押し付けた条約という解釈だが、琉球の独自外交で譲歩を引き出した可能性がある。
 実際、フランスの土地購買権を拒否している。46年にもフランスの艦隊が運天港(今帰仁村)に来航し条約締結を求めたが断った経緯もある。
 54年の琉米修好条約では、約3カ月前の日米和親条約で日本が米国に領事裁判権などを認めさせられたのに対し、琉球は、米兵による女性への暴行事件(ボード事件)の経験を踏まえ、逮捕権を毅然と要求し盛り込ませている。琉仏条約でも第10条で、琉仏両国の違法者はお互いの法で処罰すると規定している。不平等な現在の日米地位協定の抜本改定を米国に求めない日本政府とは対照的だ。
 79年の琉球併合(「琉球処分」)の際、琉球は琉米・琉仏・琉蘭の3条約を盾に諸外国へ併合の不当性を訴えた。当時の国際慣習法と照らし、琉球併合は不正だったと複数の国際法学者が指摘している。
 今回の文書はオークションにかけられる。玉城デニー知事は「非常に貴重な原本。沖縄県としてもどうにか入手できないか」と語った。3条約含め琉球が外交面で自己決定権を行使した証しだ。本来沖縄のしかるべき機関が保管し、沖縄の自己決定権を展望する貴重な原石の一つとすべきだ。