<社説>喜瀬武原闘争50年 大衆運動が歴史開いた


<社説>喜瀬武原闘争50年 大衆運動が歴史開いた
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 「ぼくたちは美しい自然の中で勉強をしたいのです。国や県はぼくたちの勉強する権利を守ってほしい」―。沖縄の日本復帰の翌年、1973年のきょう、恩納村喜瀬武原で、在沖米海兵隊による県道104号を封鎖しての実弾砲撃演習に抗議する住民集会での、児童生徒代表の訴えの一節である。喜瀬武原闘争の幕開けだった。

 生活を脅かす問題として広く県民の共感を得て、全県的闘争に発展した。抗議や要請を無視して強行される演習を阻止しようと74年から77年にかけて、阻止団が着弾地に入るという体を張った取り組みもあった。刑特法(日米地位協定に基づく刑事特別法)の適用により、裁判闘争もあった。そして復帰から25年たった97年にようやく、演習は県外に分散移転された。復帰後の歴史的大闘争について50年の節目に振り返る意義は小さくない。
 復帰前、米海兵隊キャンプ・ハンセンでの実弾砲撃演習は道路を封鎖せずに実施された。73年4月、金武ブルービーチ訓練場で薬きょうを拾っていた女性が戦車にひかれて死亡する事件があり、演習時に道路を封鎖することになった。キャンプ・ハンセンに挟まれている喜瀬武原地区にとって、国道58号と329号を結ぶ県道は重要な生活道路である。住民は、危険で生活に支障が出る演習に反対した。
 砲座から着弾地までは約4キロで、射程30キロの155ミリりゅう弾砲は訓練区域をはるかに超える。また、爆発音や地響きに加え、砲弾の破片落下も頻発した。着弾地では緑が失われ、水質汚染、海の赤土汚染も起きていた。
 闘争では、車での道路占拠や、着弾地で旗を掲げたり、のろしを上げたりして抗議し、何度も中止に追い込んだ。これに対し那覇防衛施設局(現沖縄防衛局)は刑特法を適用するために訓練場に柵を張り巡らし、県警は機動隊を多数動員し、ヘリコプターも出動させて逮捕を図った。76年には、阻止団を見つけられないとして米軍が演習を強行し、1人が重傷を負った。
 96年、日米特別行動委員会(SACO)の最終報告で本土分散移転が決定され、97年3月が最後の演習となった。
 10日、うるま市で映画とトーク、コンサートを通して喜瀬武原闘争を振り返った。登壇した刑特法裁判の元被告たちは「僕たちの闘いは終わっていない」「日本中が戦場にされようとしている今の方が怖い」などと発言した。
 軍事優先による理不尽な人権侵害に対して、沖縄の大衆運動ではしばしば、体を張った非暴力の抗議行動がある。現在も名護市辺野古の新基地反対闘争の座り込みなどに引き継がれている。復帰後も沖縄では民意と人権が顧みられない状況が続いている。苦難に立ち向かってきた大衆運動の歴史を振り返り、そこから教訓や課題を見いだす努力を続けたい。