<社説>宮森小墜落事故57年 命の二重基準を許さず


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 18人が犠牲になり、200人以上が負傷した石川市(現うるま市)の宮森小学校米軍ジェット機墜落から57年を迎えた。

 この悲劇は、他府県と沖縄で使い分けられる「命の二重基準」を端的に示している。犠牲者を悼むとともに、今も変わらない二重基準の撤廃を求める。
 1952年4月、サンフランシスコ講和条約の発効で日本が主権を回復すると、日本に配備されていた米軍の安定運用が揺らぐ。例えば、東京都砂川町(現立川市)で米軍基地の拡張に反対する住民たちが逮捕された砂川事件(57年)が発生するなど、反対運動が激化した。
 一方、講和条約第3条で日本と切り離された沖縄の場合、米軍は基地を自由使用した。このため反対運動によって岐阜、山梨両県に駐留していた第3海兵師団が56年2月、沖縄に移駐した。米軍の集中によって事件事故が多発する。
 米軍が沖縄に移駐し、日本から米軍の姿が隠された57年3月、宮森小学校に墜落したF100D戦闘機が嘉手納基地に配備された。
 同型機の事故が多発していたことは当時、知られていない。米空軍のまとめによると、事故の前年に重大事故(クラスA)は168件、47人のパイロットが死亡している。F100が飛行した53~90年の間(本格運用は79年まで)に、クラスAは1161件、パイロットの死者は324人に上った。
 米軍は宮森小に墜落した原因を「エンジン故障による不可抗力の事故」と発表した。しかし、最大の原因は「整備ミス」だった。本来なら飛ばしてはいけないはずだ。この事実が明らかになったのは事故から40年後だ。
 宮森小の事故から2年後、同型機が具志川村(現うるま市)川崎に墜落し住民2人が死亡した。その後も米軍は同型機を嘉手納基地に配備し続けた。キューバ危機が深刻化していた1962年、嘉手納基地配備のF100に水爆「マーク28」が装着された。非核3原則によって日本に核を持ち込めないが、沖縄は可能だった。明らかに二重基準だ。
 沖縄返還後も米軍機墜落は後を絶たない。2004年8月には米軍普天間飛行場に戻る大型輸送ヘリが沖縄国際大学に墜落した。米本国や本土の基地では到底できない基地の運用も際立つ。県民の命が不当に軽く扱われる二重基準を放置することは許されない。