<社説>32軍南部撤退決定79年 「犠牲強いた日」継承を


<社説>32軍南部撤退決定79年 「犠牲強いた日」継承を
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 沖縄戦時、首里城地下に構築された日本軍の第32軍司令部壕を調査している県は22日、城西小学校側にある第2、第3坑道内の写真と映像を公開した。壁面にはつるはしの跡が残り、土砂が崩落している場所もある。構築から79年を経て劣化が進んでいる。

 県は園比屋武御嶽の裏手付近に坑口がある第1坑道の公開を2026年度に予定している。安全性などの課題が残されているが、沖縄戦の実相を伝える戦争遺跡として、ぜひ公開にこぎ着けてほしい。

 坑道は4~5月に撮影されており、作戦室や参謀室などの重要施設と隣接している。第32軍司令部の首脳は坑内で本土決戦を遅らせるための「戦略持久戦」を指揮し、県民に多大な犠牲を強いる結果を招いたのである。

 その最たるものが79年前の5月22日に決定した南部撤退である。「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を象徴する日として記憶し、継承しなければならない。

 第32軍司令部は配下の24師団、62師団の首脳らを司令部壕に集め、(1)首里決戦案(2)知念半島撤退案(3)喜屋武半島撤退案―の3案を巡って協議し、牛島満司令官が喜屋武半島撤退を決断した。日本軍は大半の戦力を失っていたにもかかわらず、戦略持久戦の継続を決めたのだ。

 第32軍で戦略持久戦を主導した八原博通高級参謀は1972年の著書「沖縄決戦―高級参謀の手記」で、「本土決戦を少しでも有利ならしめるためには、あくまで抗戦を続けるべきである」との持論を長勇参謀長に具申したことを明らかにしている。

 この判断が南部に避難していた住民を戦渦に巻き込む悲惨な結果をもたらした。日本軍による壕略奪、「集団自決」(強制集団死)なども起きている。第32軍は戦略持久戦の遂行を優先し、住民保護を度外視した。住民を守らないばかりか、逆に犠牲を強いた軍の責任は重大である。

 沖縄は今、軍の作戦が引き起こした住民犠牲を過去のものとして済ますことができない事態と直面している。

 先島の自衛隊増強、米軍基地の機能増強、有事の際の自衛隊や海上保安庁による使用に備えて整備する「特定利用空港・港湾」指定などは沖縄の軍事要塞(ようさい)化に向けた動きだ。土地利用規制法や重要経済安保情報保護・活用法は個人の権利やプライバシーを侵害する恐れがある。

 これらの動きは日本軍の陣地構築や住民の戦場動員、国家総動員法や軍機保護法などの戦時法制などによって経験してきたことだ。その帰結として沖縄戦があり、県民、国民の戦争犠牲があった。同じ道をたどっているのではないか、私たちは厳しく現状を直視しなければならない。

 「新たな戦前」を招いてはならない。そのためにも第32軍司令部壕を拠点とした無謀な作戦指揮と住民犠牲を問い続けなければならない。