<社説>川崎沖縄県人会100年 足跡に学び、語り継ごう


<社説>川崎沖縄県人会100年 足跡に学び、語り継ごう
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 神奈川県の川崎沖縄県人会が創立から100年を迎えた。9日に盛大に記念式典が開かれた。関東大震災など幾多の苦難を乗り越えて結束し、「ゆいまーる」を受け継いできた姿は、沖縄県民にとっても大きな喜びである。

 ウチナーンチュの絆で結束し、日本経済の発展に寄与してきた会員たちは私たちの誇りである。その足跡に学び、川崎の県人と共にしっかりと語り継いでいきたい。

 1900年代初頭、沖縄は「ソテツ地獄」と呼ばれる深刻な不況に見舞われた。現金収入に乏しく、貧困にあえぐ農村では、海外や国内への移住や出稼ぎが相次いだ。

 川崎には19年、富士瓦斯紡績などに就職するため、多数の沖縄出身者が移り住んだ。慣れない環境と重労働に耐えながら沖縄に送金し、郷里の家族を支えた。

 生活が軌道に乗り始めた矢先の23年9月、関東大震災が川崎の県出身者を襲った。震災後に工場が当時の川崎町役場に報告した震災死亡者人名表によると、女性46人、男性2人の計48人の沖縄出身者が震災の犠牲になった。

 震災の悲劇とその後の混乱を受け、24年に互いに助け合う組織として設立されたのが現在の川崎沖縄県人会の母体である。

 9日の式典で金城宏淳会長は「『ちむぐくるあわち、未来へ』を合言葉に次の10年、50年、100年を見据え歩んでいきたい」と語った。互いを思いやる心で活動を続けてきた県人会の末永い存続を願ってやまない。

 工業都市として発展した川崎市は、沖縄だけでなく朝鮮半島などからも人々が集まる多様性に富む地域だ。沖縄出身者は差別やあつれきに直面したが、県人会はこうした困難を結束して乗り越え、多様性あふれる街で脈々と沖縄の肝心(ちむぐくる)をつむぎ続けている。

 一方、移り住んだ県人も2世、3世の時代になり、郷土意識も薄れがちになっているとの指摘もある。金城会長によると、200世帯を超えたピーク時から減り、現在の会員は180世帯だという。

 川崎に生活基盤を構築できた世代にとっては、県人会に入会しなくても不自由はないのかもしれない。川崎沖縄県人会は「沖縄が好きな人なら誰でも」と門戸を開放し、時代に沿ってより柔軟な活動を続けている。

 県人会の会合では伝統芸能も披露される。川崎市、神奈川県の無形民俗文化財に指定されている川崎沖縄芸能研究会は、郷土文化を継承し続けている。アイデンティティーや文化の継承に努めてきた気概を私たちも見習いたい。

 川崎沖縄県人会の100年の歴史は沖縄の歴史の一部である。川崎市をはじめ、全国、世界各地で活動を続ける県人会にいま一度目を向け、次の世代にきちんと伝えていくことは私たちの務めだ。次世代に向け、さらに沖縄の絆を大切にしていきたい。