<社説>飛行差し止め破棄 国民守らぬ司法は退場せよ


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 最高裁は国民を守る「人権のとりで」の責務を放棄した。神奈川県の厚木基地騒音訴訟で一、二審が命じた自衛隊機の飛行差し止めを破棄した最高裁判決に、強い怒りと失望を禁じ得ない。

 「せめて人が眠る夜間の飛行はやめてほしい」というのが住民の切実な願いである。一、二審は訴えを真剣に受け止め、自衛隊機の午後10時~翌午前6時の飛行差し止めを命じた。司法の良心が示されたのである。
 これを最高裁は破棄し、夜間から早朝の飛行を容認した。しかも最高裁は一、二審判決が認めた「将来分の賠償」も否定した。国民の被害救済に向かいかけた米軍・自衛隊基地騒音訴訟の流れを大きく後退させ一、二審が示した「司法の良心」をも踏みにじった。
 一、二審判決も決して満足な内容ではない。米軍機の飛行差し止めは認めなかったからだ。しかし最高裁は米軍機だけでなく自衛隊機の夜間・早朝飛行をも容認した。司法の「全面敗北」である。
 最高裁判決は言い渡しとともに確定し、米軍・自衛隊機の差し止め要求は道を閉ざされた。将来分の賠償の否定を含め、全国の基地騒音訴訟に及ぼす影響は大きい。
 最高裁は「睡眠妨害の程度は深刻」と認定しながら「防衛相の広範な裁量」を理由に自衛隊機の夜間・早朝運航を容認した。
 国民の被害救済よりも防衛相の裁量、自衛隊機運用を重視し、「人権のとりで」として国に対峙(たいじ)すべき三権分立の尊厳、司法の独立を自ら否定したに等しい。
 国民、司法は「米軍・自衛隊基地の運用に口を挟めない」と言うがごとき最高裁の判決は、「高度の政治性を有する安保条約は司法判断になじまない」とする統治行為論に沿うものだ。
 統治行為論は米軍駐留を違憲とする一審判決を破棄した1959年の「砂川事件」最高裁判決に始まる。だが同判決は、当時の最高裁長官が日米両政府の圧力を受けて下したことが米公文書で明らかになっている。
 政治に司法が追従する流れの中に今回の最高裁判決がある。嘉手納爆音訴訟の裁判長だった瀬木比呂志氏は「裁判所は国家権力の番人と化している」と批判する。
 国民には最高裁判所の裁判官を罷免する国民審査の権利がある。国民の人権を守らぬ裁判官は退場させるしかない。小池裕裁判長らの名前を記憶したい。