<社説>上原康助氏死去 「主体は沖縄」の信念継ぐ


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 元沖縄開発庁長官の上原康助さんが死去した。

 全沖縄軍労働組合(全軍労)の委員長として基地労働者の待遇改善に取り組み、1970年に沖縄で戦後初の国政参加選挙に当選。県選出議員として初めて国務大臣に就任した。10期30年、基地の重圧や、格差など沖縄の現状を国会で訴え、問題解決のために奔走した。
 68年11月、嘉手納基地にB52が墜落した。嘉手納町の自宅の庭にまで破片が飛んできた。「B52を撤去させるには、ゼネストくらいの抗議をしないといけない」と怒り、翌69年2月4日に計画された沖縄初のゼネストのきっかけになったとも言われる。
 しかし、ゼネスト参加者は解雇という米当局の強硬姿勢に直面して組織は混乱、全軍労は直前でゼネスト参加を回避した。全軍労が加盟する県労協は、屋良朝苗主席のゼネスト回避要請を受け激論の末、回避を決定した。上原さんは生前「実際にゼネストに入れなかったことは県民に申し訳ない」と語っていた。
 この挫折で全軍労は立ち上がれないという見方があったが立て直して、基地労働者の大量解雇に対し70年1月に48時間、120時間と相次いでストライキを決行。「首を切るなら基地も返せ」と訴え、先頭に立って離職者対策や解雇後の生活保障を求めた。
 国政参加選挙に当選した直後の70年11月27日、戦前戦後を通じ県選出議員として初めて代表質問に立つ。38歳だった。「沖縄県民の意思を問うことなく、平和条約と引きかえに、日本政府は一方的に沖縄を米軍支配にゆだねた」と主張し、佐藤栄作首相に対し、県民が被った差別と犠牲に対する責任を追及した。
 本会議場で傍聴していた屋良主席は感激して「沖縄にとっては歴史的瞬間」「沖縄の声を率直大胆に表明し、訴えてくれた」と日記に書いているほどだ。
 特筆されるのは95年に議員立法で軍転特措法を成立させたことだ。軍用地が返還された場合、国の原状回復義務を明記し、返還後3年間賃借料・補償金を支払う内容だ。在任中、病で倒れた平良幸市知事が心血を注いだ懸案事項だった。
 それを上原さんが引き継ぎ80年、82年、91年の3度、国会に提案した。だが審議未了で廃案になってきた。94年6月に4度目の提案を行ったが、自民党の抵抗で危うく廃案になりかけた。ここで上原さんは粘りを発揮し、沖縄側が保革一致団結することによって法案は成立した。
 「沖縄の明日を創造していく主体は、常に沖縄側にある」と主張し、沖縄の政治家に政策を磨き、気骨を持って日本政府や米国と大胆に勝負するよう求めた。基地問題を前進させるために、党派を超えて県民の英知を結集する必要性を訴えていた。
 上原さんの信念は次世代に引き継がれるだろう。