沖縄戦の犠牲者と遺族を冒涜(ぼうとく)し、戦争の実相を伝える戦争遺跡を破壊する行為は決して許されない。
沖縄戦で住民が集団で死に追い込まれた読谷村波平の自然壕「チビチリガマ」の内部や入り口が、何者かによって荒らされていた。
ガマ内部の遺骨や沖縄戦当時の瓶やつぼなどの遺品が散らばっていた。平和学習で県内外から訪れた中高生らがささげた折り鶴は引きちぎられ、「世代を結ぶ平和の像」の石垣が破壊された。彫刻家の金城実さんが作詞したチビチリガマの歌の碑や、立ち入り禁止の看板も引き抜かれ倒された。
1987年にも「世代を結ぶ平和の像」が右翼団体員によって破壊された。遺族会会長が「(沖縄戦、30年前の破壊事件、今回で)3度殺された」と憤るのはもっともだ。誰が何のために荒らしたのか早期解明してほしい。
45年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸。同日チビチリガマにやってきた米兵に対して、青年らが竹やりを持ってガマを出たところ機関銃で攻撃され2人が重傷を負った。米軍通訳が「殺しはしないから、ここを出なさい」と呼び掛けたが、米軍に捕まると残虐な方法で殺されると信じ込んでいた人々はガマの奥へ逃げ込んだ。
翌2日、米軍がやってくると、元中国従軍兵士がガマの中でふとんや毛布を重ねて火を付けた。避難民らは毒薬注射、鎌や包丁などの刃物で殺し合った。
当時、日本軍は民間人でも「捕虜」になるな、一人でも敵を殺して死ぬか、自ら死ぬよう宣伝・教育を繰り返していた。日本軍は、米軍に捕らえられると男性は戦車でひき殺され、女性は辱めを受け殺されると恐怖心をあおっていた。このため米軍に投降する者は非国民とみなされた。実際に投降しようとする者は日本兵に殺害された。
「報道宣伝防諜等ニ関スル県民指導要綱」によると、第32軍は県民指導方針として「軍官民共生共死の一体化」を打ち出し、住民は、米軍に捕まる前に日本軍と共に死ぬよう「指導、誘導、説得」されていた。「沖縄県史」によると、チビチリガマは外界から遮断されて、生きているのはもはや自分たちだけという孤独感が極端に強まっていたと指摘している。
このように住民が集団で死に追いやられたのは、民間人にまで死を求めた日本軍の強制と誘導があったからだ。チビチリガマは沖縄戦の日本軍による住民被害を象徴する場である。
今回の損壊について石原昌家沖国大名誉教授は「『命どぅ宝』という沖縄の平和の思想を発信している場所として注目を集めてきたからターゲットになったのだろう」と指摘している。
再びガマに暴力がふるわれたことを深く憂慮する。暴力からは何も生まれない。
英文へ→Editorial: Unforgivable destruction at Chibichiri-gama desecrates the spirit of “nuchi du takara”