終戦68年 不戦の原点見詰めたい 集団的自衛権容認は危険


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 戦後68回目の終戦記念日がめぐってきた。

 だが今、戦後営々と築き上げてきた「不戦の防御壁」が音を立てて崩れつつある。政府は武器輸出三原則撤廃の方針を固めただけでなく、専守防衛の原則を捨てて敵地攻撃能力保有も唱え始めた。自衛隊の国防軍化を公言するだけでなく、集団的自衛権行使容認を唱えるに至っては、「平和主義」の仮面をかなぐり捨てるに等しい。
 おびただしい命が失われ、全ての営みが灰燼(かいじん)に帰したあの惨禍から、日本は痛切な反省の末、戦争放棄の誓いを立てたはずだ。その原点を見つめ直したい。

足して2で割る

 安倍晋三首相の私的諮問機関である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(有識者懇)が年内にまとめる報告書で、集団的自衛権行使容認論を打ち出すのは必至だとされる。
 自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国が攻撃されたからといってその国と一緒に戦争を始める。集団的自衛権の行使とはそういうことだ。
 これを認めれば、日本国憲法の三原則の一つ「戦争放棄」は完全に空証文となる。自国と関係のない他国の戦争に参加して、戦争放棄などと言えるわけがない。
 こうした憲法の大原則の変更を、改正の手続きをすることなく、国会での議論すらなく、法定の機関でもない一私的諮問機関が事実上決めてしまう。これでは日本はもはや立憲国家ですらない。
 この懇談会は第一次安倍内閣当時の2007年にも設置され、集団的自衛権行使を打ち出した。その際「公海上を並走中の同盟国軍艦への攻撃」など「4類型」をまとめ、これらを発動対象にすると掲げた。今回はこの類型も取り払う方針だ。集団的自衛権の対象国も不明確にし、いろいろな国の戦争に参加できるようにするという。米国追従にとどまらないのだ。
 おそらく、何でも発動対象だと驚かせておいて、国会審議で対象を限定することにし、「落としどころ」とするのが狙いだろう。最初に最大限の要求をふっかけておいて、さも譲歩したように見せかける。「足して2で割る」手法なのが透けて見える。
 政府はそうした術数を凝らすのではなく、行使容認の是非を正面から議論すべきだ。米国が始める戦争に無原則に付き合うのは危険すぎる。「無原則ではなく日本が主体的に判断する」と政府は言うだろうが、今の対米屈従外交の日本に「主体的」判断ができると、誰が信じられるだろうか。

「包囲網」の虚構

 最近の日本の危うさは歴然としている。北朝鮮敵視は言うまでもなく、中国・韓国敵視論が声高に叫ばれる。まるで戦争をしたがっているかのようだ。
 中国敵視論の論者は、対中国包囲網構築を唱え、政府もそれが着々と成果を収めているかのように見せているが、空想に等しい。米国は「領土問題で立場を取らない」と明言しており、尖閣問題で中国と戦争するわけがない。米国が中国に対し、冷戦期の「封じ込め」でなく「抱き込み」を図っているのは国際政治の常識だ。
 台湾と中国の航空定期便は週600便もあり、かつてないほど良好で緊密な間柄だ。ベトナムと中国は海も陸も国境が画定した。インドも画定協議推進で合意した。日本が唱える中国包囲網にくみするところなどほとんどない。辛うじてフィリピンくらいだ。
 「従軍慰安婦」の問題も含め、米国も安倍政権の姿勢に冷ややかであり、国際的に孤立しつつあるのはむしろ日本の方なのである。
 ナショナリズムをあおるのは政治的人気をたやすく得る手段だが、好戦的な排外主義者に流されてはならない。まして沖縄の海が火の海になることがあってはならない。戦争は外交の敗北、政治の失敗である。包囲網などではなく、友好的姿勢で粘り強く信頼関係を築くことこそが真の外交だ。