<南風>北風と太陽


社会
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白木 敦士(琉球大大学院准教授)

 那覇空港で修学旅行生の姿を目にするようになった。コロナ前の日常が戻ってきたことを感じる風景の一つだ。先日、引率教員の怒声を耳にした。「早く並べ! 静かにしろ! バカヤロウ!」。大きな声で怒鳴られることが何よりも苦手な私は、思わずたじろいだ。

 小学校2年生になる私の子どもは、「先生に怒られないようにしなきゃ」と毎日心配している。確かに、私自身の子ども時代を振り返っても、「悪いこと」をしたら、親や学校の先生に怒鳴られることは、「仕方のないこと」として受け止めていたように思う。

 そんな子どももやがて大人になる。働き始め、職場の先輩となり、上司となり、「指導者」の立場になっていく。「先生は、失敗した生徒を怒鳴ってよい」という考えは、「上司は、失敗した部下を怒鳴ってもよい」という考えに、疑問を持たれることなく変換されていく。パワハラ文化の源流は、子ども時代の「先生に怒られる」という被害体験にあるのではないか。

 児童虐待防止法は「児童に対する著しい暴言」を「児童虐待」に含める。平手打ちなどの身体的虐待だけではなく、怒声を浴びせ、子どもの自尊心を傷つけるという心理的虐待も、等しく児童虐待であるという認識は広められるべきだ。

 今年、文部科学省は、教員による叱責(しっせき)など、行きすぎた「指導」によって子どもが自死を選択する「指導死」に対する実態把握に着手した。学校教員の「怒鳴る」という行為は、指導者としてのアンガー・マネジメント(怒りの統制)の失敗に他ならない。指導は子どもの心に伝わって初めて意味を持つ。怒りに任せた「指導」は、「北風」となり、子どもの心を閉ざしてしまう。教員の指導は、子どもにとっての太陽、あるいは「南風(はえ)」であるべきではないか。冷たい北風は沖縄にはそぐわない。

(白木敦士、琉球大大学院准教授)