<南風>沖縄の改革に挑んだ県令 上杉茂憲


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 上杉茂憲(もちのり)は、明治14年から約2年間、第2代沖縄県令として在職した。東北米沢藩第13代藩主であったが、廃藩置県後、イギリス留学を経て38歳で沖縄県令となる。

 茂憲は赴任以前に、沖縄は支配層の既得権によって、多くの県民が困窮していることを知った。着任後すぐに、自ら本島と先島をつぶさに視察した。そして、県民の窮乏を救うには地租改正と勧業が重要として、直ちに県治改革案を政府に上申した。

 当時、沖縄県は日清両属問題が残り、政府は旧士族層の既得権を認める旧慣温存政策を取っていた。茂憲はそこを改革しようとした。政府は上申書に対し、深く審議するが、最終的には受け入れなかった。

 茂憲は、教育学制と人材育成にも注力する。第1回県費留学生として謝花昇ら5人を東京へ派遣した。彼らは帰郷後、政財界、新聞、農業、自由民権運動などで活躍した。また、茂憲は離任する時に多額の教育資金を寄付した。なぜ、茂憲はこれほどまでに沖縄に尽くそうとしたのか。

 茂憲の先祖に江戸時代屈指の名君と知られる第9代藩主上杉鷹山(ようざん)がいる。鷹山は、破綻寸前の米沢藩を藩組改革、人材育成、産業振興をもって見事に立ち直らせた。以後、米沢藩では、鷹山の教えは絶対となる。

 茂憲は沖縄赴任時に、「鷹山公の愛民精神をもって県治に当たる」と決意し、それを敢然と実行しようとした。しかし、時代は茂憲の理念を受け止めず、結果的に上申書が茂憲の任期を縮めることになった。

 私は、鷹山の書を多く読んだが、茂憲のことは後々に知り、己を恥じた。

 歴史に「if」はないが、もし、茂憲の改革が進められていたなら、沖縄は早くに開明的な社会を築いたかもしれないと思うと残念である。今回でコラム終了です。読者各位に感謝します。
(桑江修、沖縄県工業連合会専務理事)