<南風>初めての沖縄帰省 1963


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 私は生後8カ月で母に連れられ、先に東京に出ていた父に合流した。やがて弟たちが生まれ家族は5人となる。当時、那覇への帰省は旅費が大変で、家族そろっての初の沖縄行きは1963年。小学5年生、10歳の夏休みだった。

 寝台車で鹿児島へ、一昼夜の船旅で那覇港へ、父の母おばぁの家に着く。大勢の叔父・叔母、いとこらに面食らいながら、出された昼ご飯はゴーヤーチャンプルーだった。その苦みに吐き出し、泣きそうに。夕方には生後半年の弟が熱射病に…。強烈な始まりだった。

 母方のおばぁは、牧志公設市場で小さな靴屋を営んでいた。夕方会いに行くのだが、狭い路地を頭の上の大きなタライやカゴに荷物を載せた着物姿のおばさんたちと行き交う。

 さらに強烈だったのは、マチグヮー、市場の肉売り。豚が丸ごとつるされているのに仰天した。頭、足、耳や内臓がてんこ盛り。魚屋には青や緑や赤の鮮やかな魚たちや大きなエビ、所狭しと見たこともない食材が並ぶ。何を言ってるのか分からない言葉ががなり合うように飛び交う…いろんなものが入り交じった臭い、人いきれの異次元の世界にどぎまぎし、呆然(ぼうぜん)と辺りを見回す私だった。

 祖母の小さな靴屋は間口(まぐち)1メートルほど、7~8段の階段に男物の靴を並べ、上の方に座って商う。従兄(いとこ)と好奇心満々で店番した。アメリカーの客が来たが、どうしようと戸惑うばかりだった。驚きの日々は続く。南部の百名海岸では、クラゲに刺されて太ももが赤く腫れ上がった。浦添や糸満にも親類がいた。

 1週間余りの滞在が終わり、夏休みの宿題として提出した作文が世田谷区のコンクールで入賞して強烈な体験に“お土産”までいただいた。後年、沖縄に通う私の中にウチナーンチュが育まれていく原体験がこの旅にあったと思う。
(安田和也、第五福竜丸展示館主任学芸員)