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〈評伝〉中村メイコさん 放送芸能史と重なる歩み


〈評伝〉中村メイコさん 放送芸能史と重なる歩み インタビューに答える中村メイコさん=2018年12月
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 昨年12月31日に亡くなった中村メイコさんは俳優・タレントとしての活動が80年以上に及び、その歩みは昭和から平成、令和の放送・芸能の歴史と重なる。晩年まで明るく楽しく、ユーモアをたたえていた。

 1937年に2歳で映画デビュー。「天才子役」と呼ばれ、映画のほか、当時としては新しいメディアだったラジオでも活躍した。

 戦後も、ラジオ番組で子どもから大人まで何人もの声を演じ分けて「七色の声」と呼ばれるなど人気に。実験放送から関わっていたテレビも、本放送となってNHK紅白歌合戦や海外ドラマ吹き替え、バラエティーなど多くの番組に出演した。

 作曲家の神津善行さんと結婚、子どもを育てながらテレビの現場などに通い、今に続く「ママさんタレント」の先駆けにもなった。

 共演者や友人を挙げるだけでも「歴史」だ。撮影所や放送局で「エノケン・ロッパ」こと喜劇王・榎本健一や古川ロッパ、徳川夢声らにかわいがられた。森繁久弥さんとも親しく、同世代の美空ひばりさんは親友だった。

 晩年にお話を聞いた際、「タモリさんからね、『動く放送博物館』って呼ばれたのよ」と語り、誇らしげだった。芸能界の第一線で活躍してきた自負がうかがえた。

 一方で、芸能界という特殊な世界しか知らないことへの複雑な気持ちも吐露した。神津さんと結婚したのは「普通の感じが良かったから」だといい「大人になっても電車の乗り方がよく分からなかった」と語っていた。「人目を気にしない、自由な恋愛をしたいと思ったこともあったけど、無理だから」と話してくれたこともあった。

 ナンセンスユーモア作品を描いた作家で父親の中村正常の教えを胸に、常にユーモアを忘れなかった。お話をうかがうのはいつも楽しかった。コメディエンヌ(喜劇女優)の意識が高かった。

 ただ晩年も、もっと活躍したかったに違いない。「あちら(欧米)だったら、この年齢でも…」とつぶやいたのを聞いた。

 親しかった人は次々と彼岸に旅立った。生前、ある芸能人についての思い出を聞いていたら、周囲と自分の葬式の進め方を話し合ったという。

 「焼香は、いい男から順番にしてほしいんだけど。でも、もう、知り合いのいい男はだいぶ亡くなっちゃったからねえ。はは」

 からからと明るい声だった。

(共同通信記者 秋山衆一)


メイコさんは幸せだった

 俳優でエッセイストの黒柳徹子さんの話 メイコさんと最後に会ったのは今から2週間前の「徹子の部屋」でした。ちょうど、クリスマスの日でした。メイコさんは幸せだったと思います。家族みんなが理解してくれていたからです。2歳から仕事をしてたんですから、私から見ると変わっていましたが周りのみんなが、彼女にあわせて大切にしてくれていたからです。眠るように亡くなったと伺いました。デリケートな彼女が悩むことなくあちらの世界に逝かれたのは、私にとっては心がやすまることです。寂しくなります。