教室の窓から雨に濡れたモクマオウの針葉の先にたまった雨粒を見つめ、感動した生徒がいた。彼はパリを拠点に活躍する画家、彫刻家となった。8期生の幸地学(69)である。
1954年、現在の那覇市与儀で生まれた。母ときょうだい3人の家族だった。当時の与儀はまだ自然が豊富で、花や木々に親しむ少年期を送った。近くには米軍の貯油タンクがあった。「僕はタンクを見ながら育った。金網の前が遊び場だった」。手先が器用でものづくりが好きだった。針金工作に熱中し、絵画が好きだった。完成間もない那覇琉米文化会館に掲げられていたシャガールの絵に魅せられた。
70年、家から近いという理由で小禄高校に入学した。グラウンドのそばを流れる国場川とその周辺の風景に親しみを覚えた。高校時代は「おとなしい生徒だった」と語るが、美術に加え、スポーツやコーラスを楽しむ高校生活を送った。校内合唱コンクールでは指揮者を務めた。「ソーラン節をアレンジした。僕が何度も練習で歌わせるんで、みんながあきれるくらいでした」と笑う。
3年生になり、進路を考えるようになった。いろいろ考える中、行き着いた先がアートの世界だった。「結局、小さい頃からものづくりが好きで。絵画が好きだった。やっぱりアートがいい」
高校卒業後、東京で学んだが、与えられる課題をこなすような授業に飽き足らず海外へ。イタリア、イギリスなどで研さんを重ねた。大学では好成績を収めたが、芸術家として独り立ちするためには、絵を売らなければならない。
「描いた絵を抱えてギャラリーを回った。門前払いを食らうこともあった」。その中で徐々に認められるようになる。修業時代の幸地を支えたのは妻であり、沖縄から仕送りを続けた母であった。
芸術家としての初心を忘れない。「モクマオウの葉の先にたまった雨粒。それを見た時に新鮮な感動を覚えた。この感動を表現したい」
那覇市内を中心に不動産業を展開している喜納住宅開発社長の喜納兼功(69)も8期生。那覇市や県のPTA連合会会長を歴任するなど子どもの健全育成に長く関わってきた喜納は高校時代、サッカー部のキャプテンとしてチームを2度、県インターハイ優勝に導いた。
1954年、7人きょうだいの次男として那覇市牧志に生まれた。父は安里にかつて存在した瓦工場で工場長(後に社長)を務めていた。当時、安里周辺には建築資材などの販売店が多くあり、父は工場で使うまきを取るため、多い日には1日でやんばると那覇を3往復していたという。
中学からサッカーを始め、高校は顧問の勧めもあり、小禄高校を選んだ。サッカー部は喜納が2年だった71年から県インターハイを3連覇するなど強豪校として知られていた。一方、野球部には、沖縄水産高を2年連続で夏の甲子園準優勝に導いた栽弘義がいた。喜納は入学時、栽から「体がでかいからスラッガーになれるぞ」と、誘われたという。
部活は厳しく、最初は辞めることばかり考えていたが、3年でキャプテンを任されると、サッカー経験がなかった監督に代わって、「練習内容や選手の配置などを考えた」
高校卒業後、琉球大に入学し経営学を学ぶ。その後、沖縄銀行に入行したが、27歳の時に父が他界し、父が始めたアパート賃貸業を引き継いだ。県内にアパートが少ない時代、「父は基地内の住宅を参考に、水洗トイレやダブルベッドなど家具付のアパートをつくった。部屋は常に満室で、父には先見の明があった」。1988年に喜納住宅開発を設立以来、「顧客一人一人のニーズに合わせた住宅づくり」に取り組む。
一方、娘が壺屋小に入学したのを機にPTA活動を始めた。子育てや教育を母親任せにせず、美化活動や夜間の見回りなど子どもの健全育成に情熱を注いだ。
多感な高校時代。二人にとって高校生活は人生の基礎であり、初心を思い出す時代でもある。「高校の友人とは今も続いている」。二人は口をそろえる。
(文中敬称略)
(小那覇安剛、吉田健一)
【沿革】
1963年4月 開校
68年4月 通信制課程開設式(77年に泊高に移転)
70年7月 全国高校野球選手権沖縄大会で初優勝
71年7月 弓道女子チーム九州総体優勝
83年11月 九州地区吹奏楽連盟主催マーチングバンドコンテスト金賞
87年11月 全国高校サッカー選手権沖縄大会優勝
88年8月 全国高校総体ハンドボール男子で県勢初の全国制覇
90年8月 全国高校総体空手道個人型優勝
98年4月 コース制導入
2004年4月 コース制一部改変
(QRコードから校歌を聞くことができます)