<未来に伝える沖縄戦>艦砲爆風で3人焼死 伊波義雄さん


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 宜野湾市嘉数で生まれ育った伊波義雄さん(82)は6歳で、沖縄戦を体験しました。嘉数から南部に移動し、真栄里の陣地壕で米軍の毒ガス攻撃を受け、捕まりました。伊波さんの話を宜野湾市立嘉数中学校2年の高橋歩羽さん(14)と金城穂佳さん(14)が聞きました。

自身の戦争体験を語る伊波義雄さん=1月16日、宜野湾市の嘉数公民館

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 《伊波さんは1938年8月、宜野湾市嘉数で生まれました。きょうだい5人の3番目でした》

 私たちの家族は父、母、兄2人、弟と妹がそれぞれ1人の7人家族でした。父は農業をし、サトウキビやイモなどを栽培していました。母は妹を産んだ後、亡くなりました。1945年4月に沖縄本島で地上戦が始まると、父と2番目の兄、私、弟、妹の5人で避難しました。1番上の兄は戦争に徴兵されており、別行動でした。

 《伊波さんが戦争の足音を感じたのは、44年8月ごろでした。嘉数高台に陣地壕を造るため、第13大隊が集落に駐屯してきました》

 嘉数に日本兵約1200人が44年8月ごろ、やって来ました。兵隊と住民が協力し、陣地壕や防空壕を造りました。

 私の家も含め、住民それぞれの家に兵隊5~6人が寝泊まりしていました。上官は瓦ぶき、一般兵はかやぶきの家でした。兵隊の人数は住民よりも多く、各家屋では兵隊が寝床を占め、住人は台所で過ごすなど大変でした。

 《米軍は上陸するため沖縄に接近してきました。伊波さんは3月23日から、壕と家を行き来する生活が始まりました。現在の浦添市牧港にあるチヂフチャーガマで数日過ごし、南部に移動します》

 4月1日、私は入学式のための服に着替えていました。その後、米軍が上陸したと聞かされました。米軍は現在の読谷村付近の海岸から上陸しました。私はチヂフチャーガマにいました。ガマの入り口は高さ12メートルで、奥行きは110メートルありました。そこに約400人の住民が避難していました。中には水が流れ、飲み水には困りませんでした。ただ、便の処理が大変で、詰まると臭いが充満しました。

 日本兵は「嘉数を守るから、住民は南部に避難して」と言い、住民は南部などに移動していきました。私たち家族は5日までガマにいました。その間、家が燃やされ、牧港の沖に密集した米軍艦船を見ました。大砲が撃ち込まれる音も聞きました。米軍は午前8時から午後5時まで弾を撃ち、夜は艦船が陸地から離れた沖に移動します。それで時間が分かりました。

 6日、私の家族5人と親戚23人はガマを出て、南部への避難を始めました。嘉数の住民の中で、最も遅い出発でした。ガマには約30人が残りました。足が不自由な人、遠くに行くことが難しい子どもやその母親、お年寄りなどでした。

※続きは2月10日付紙面をご覧ください。