<未来に伝える沖縄戦>ジャネーガマに家族で避難 先祖の墓、米軍基地に接収 森根昇さん


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沖縄戦の体験を語る森根昇さん=11月24日、うるま市の与勝第二中学校(大城直也撮影)

 与那城村(現うるま市与那城)屋慶名で生まれ育った森根昇さん(81)=うるま市=は、4歳の頃に沖縄戦を体験しました。森根さんは集落近くにある薮地島の「ジャネーガマ」と呼ばれる薮地洞穴に身を潜めていました。森根さんの話を、与勝第二中学校1年の岩見琉聖さん(13)と上原叶宝(13)さんが聞きました。

 《森根さんは1941年4月1日に生まれました。親から聞いた沖縄戦の話や自身が体験した断片的な記憶が残っています》

 戦時中、家やその近くに壕があった。空襲警報が鳴るとすぐに家の壕に隠れたが、少し余裕がある時は家から数百メートルほど離れた壕に入っていた。壕の中で泥だらけになったり、落ちてけがをしたりした記憶がある。

 当時は県知事が疎開先を指定していた。与那城村は国頭村と東村などに疎開先が割り当てられていたが、村長は金武村(現金武町)を疎開先にしようと提案した。北部の疎開先では食料がないと村長が疑問に思い、機転を利かせたようだ。

 集落の大勢が金武村に行ったが、すぐに芋を食べ尽くしてしまった。その後は山に行って、野草を摘んで食べた。私も食べられる野草とそうでないものを見分けられるようになった。

 疎開したのは45年2月から3月ごろだった。食べ物がなくなって1カ月ほどで帰ってきた。帰ってから米軍の上陸が始まった。

 《森根さんの叔父は米軍の動きを偵察する与那城監視哨の哨員でした。10・10空襲の話も記憶しています》

 叔父が与那城監視哨の哨員だった。監視哨は戦闘機を早期に見つける施設で、1日6人で24時間体制で敵の偵察をしていた。1944年10月10日、叔父は平安座島と浮原島の間からグラマンが那覇方面に飛んでいくのを見た。10・10空襲だった。監視哨の哨員が敵の襲来を県庁に伝えたが、日本軍は同じ味方の演習だから心配するなと言って、真面目に取り合わなかった。10・10空襲では多くの住民が犠牲になった。日本軍が真剣に受け止めていれば被害が異なったかもしれない。

※続きは12月14日付紙面をご覧ください。