読谷村波平に住む上原豊子さん(80)が沖縄戦を体験したのは8歳の頃です。避難した先のチビチリガマで、家族同士が殺し合いに追い込まれ、住民約140人のうち83人が亡くなった「集団自決」(強制集団死)の悲劇を目の当たりにしました。読谷中学校3年の與那覇彩夏さん(15)、兼謝名成美さん(15)が上原さんの体験に耳を傾けました。
〈1944年の10・10空襲後、波平の住民たちはチビチリガマに避難を繰り返すようになりました。45年4月1日、米軍が本島に上陸した時、上原さんは祖父と母、きょうだい3人とチビチリガマにいました〉
米軍が上陸した4月1日、食べ物を探しにガマを出た住民が戻り「敵が来た」と知らせました。竹やりを持って何人かがガマを出ました。そのうち男性2人が米兵に撃たれ、亡くなってしまいました。
〈米兵がその後、ガマに入り、投降を呼び掛けました〉
米兵が「戦争は終わりました」というようなことが書いてあるビラを回してきました。米兵は武器を持っていないことを示すために上半身裸で投降を呼び掛けました。私がビラを手に取ろうとすると、ガマの奥にいた人たちは「ビラを見るな!」と叫びました。
〈米兵がガマを出た後、住民間で自決するかどうか口論になっていたといいます。翌2日の朝、再度米兵が投降を呼び掛けに来た後、「集団自決」が始まりました〉
軍の看護婦だった女の人が毒の入った注射を打ち始めました。注射を待つ人で列ができ、私の兄も並びましたが「まずは(自分の)親戚から」と最後に回されました。
最後の1人分となった時に、看護婦さんは「これは私の分だから」と言って自分に注射を打って死にました。兄は注射を打たれませんでした。
他の場所では母親が子どもの背中を包丁で刺していました。周辺に血がブワッーとはね、兄には温かい血が飛んできたそうです。「痛いよー、あがーよー」とわめく声や悲鳴が聞こえました。
※続きは2月11日付紙面をご覧ください。
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