ハワイ捕虜 写真は父 太田弘次郎さん、家族が確認


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1946年にハワイで撮られた県人捕虜の写真に写る太田弘次郎さん(神谷和子さん、太田雅秀さん提供)

 5月31日付本紙に掲載された、終戦前後に米ハワイ州の収容所に移送された捕虜の写真について、4日までに右下の男性が太田弘次郎さん(旧姓・名城、享年80)だと分かった。長女の神谷和子さん(67)=読谷村=と次男の太田雅秀さん(63)=北谷町=が、掲載写真に見覚えがあり、次女の徳里美根子さん(66)=うるま市石川=が同じ写真を持っていたことが判明した。

収容所での歌も録音

 和子さんは「父は収容所について多く語らず、この写真がハワイで撮ったとは知らなかった」と驚いて話した。また弘次郎さんは、晩年になり収容所で歌われていた「島尻一戦数え歌」を録音していた。雅秀さんは「ハワイでこの曲に勇気づけられていたはずだ。後世に残したいと思ったのだろう」と推し量った。

 「三度の食事も二度一度 飲まず食わずに奮闘す ああ戦友思い出す」「死ぬに死なれぬこの体 去った6月25日 哀れこの身は捕虜となる」-。歌詞は沖縄戦のむごさや家族を心配する思いが込められている。「この歌をいつか流してほしい」と託されていた和子さんは大切に保管していた。「この曲が当時収容所で歌われ、救われた人がいたことを知ってほしい」。歌を聞き、涙ながらに語った。

 

遺影を抱える神谷和子さん(左)とハワイ捕虜収容所の写真と掲載紙を持つ太田雅秀さん=2日、読谷村渡慶次

 カセットテープには弘次郎さんの捕虜の経験も吹き込まれていた。その証言によると収容所には演芸組織があり、数え歌は当時「比嘉さん」と呼ばれていた人が作詞したという。

 

 1945年3月1日に球部隊に入り、その後、摩文仁の浜に追い詰められた。浜の壕(ごう)で捕虜になり、ハワイのホノルル島に向かったことなどを語っている。

 

 雅秀さんは「父が一人でしんみりと歌う姿を見ていた。三線が大好きだった父を慰めるためにも、この歌や収容所での生活について、解明されてほしい」と語った。(清水柚里)

 

皆さん、こんばんは。今から「島尻一戦数え歌」を紹介しますので聞いて下さい。
昭和20年3月1日、球の3109部隊に入隊しました。
そして、4月1日に敵兵が上陸しました。海から艦砲射撃、陸から戦車砲撃されました。
そして防衛隊や住民が犠牲になりました。最後には摩文仁の浜に追い詰められました。
船でハワイのホノルル島に上陸しました。ハワイの捕虜収容所では演芸組織もありました。
「島尻一戦数え歌」を作詞、作曲なさったお方の名前は「比嘉さん」と呼んでいました。
そして、この歌が沖縄の戦に当てはまっていたので、自分はこの歌を今まで歌っていましたので、歌いますので、聞いて下さい。

「島尻一戦数え歌」

一つとさーのえー
広い世界のその中に
聞いても哀れな物語
聞いて下され皆さまよ

二つとさーのえー
二人の親は石嶺の
戦(せん)にてこの世を去っていく
後に残るは幼子か

三つとさーのえー
見れば子どもがかわいそう
そのこと隊長に申し出
連れてきたのが壕(ごう)の中

四つとさーのえー
夜は子どもと共に寝て
夜中、子どもが起きいでて
親をしたいて泣きすがる

五つとさーのえー
いつも間にか敵兵は
我が陣地に進入し
馬乗り攻撃されました

六つとさーのえー
むちゃくちゃ嘆くも手りゅう弾
幼な子どものはらをぬく
哀れなるかなこの子ども

七つとさーのえー
涙流して抱き起こし
幼な子どもの顔見れば
懐かし我が子がしのばれる

八つとさーのえー
やけくそなるのはこの僕ら
敵を全滅せしよとの
命令下すは部隊長

九つとさーのえー
ここで死ぬのはいとわねど
後に残る我が妻子
いかに暮らしてゆくだろう

十とさーのえー
どうせ覚悟は死ぬ覚悟
今日も行くぞと斬り込みに
握る銃剣、鉄かぶと

十一とさーのえー
いつも心はふるさとの
親兄弟のことばかり
いかに暮らしているだろう

十二とさーのえー
二度目の斬り込み行く時に
右腕射抜かれ島尻へ
下がるこの身の悔しさよ

十三とさーのえー
三度の食事も二度一度
飲まず食わずに奮闘す
ああ戦友思い出す

十四とさーのえー
死ぬに死なれぬこの体
去った6月25日
哀れこの身は捕虜となる

十五とさーのえー
護国の花と散りました
戦友思えば涙の身
哀れなるかな我が友よ

(仮)島尻一戦数え歌


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皆さん、こんばんは。今から「島尻一戦数え歌」を紹介しますので聞いて下さい。
昭和20年3月1日、球の3109部隊に入隊しました。
そして、4月1日に敵兵が上陸しました。海から艦砲射撃、陸から戦車砲撃されました。
そして防衛隊や住民が犠牲になりました。最後には摩文仁の浜に追い詰められました。
船でハワイのホノルル島に上陸しました。ハワイの捕虜収容所では演芸組織もありました。
「島尻一戦数え歌」を作詞、作曲なさったお方の名前は「比嘉さん」と呼んでいました。
そして、この歌が沖縄の戦に当てはまっていたので、自分はこの歌を今まで歌っていましたので、歌いますので、聞いて下さい。

「島尻一戦数え歌」

一つとさーのえー
広い世界のその中に
聞いても哀れな物語
聞いて下され皆さまよ

二つとさーのえー
二人の親は石嶺の
戦(せん)にてこの世を去っていく
後に残るは幼子か

三つとさーのえー
見れば子どもがかわいそう
そのこと隊長に申し出
連れてきたのが壕(ごう)の中

四つとさーのえー
夜は子どもと共に寝て
夜中、子どもが起きいでて
親をしたいて泣きすがる

五つとさーのえー
いつも間にか敵兵は
我が陣地に進入し
馬乗り攻撃されました

六つとさーのえー
むちゃくちゃ嘆くも手りゅう弾
幼な子どものはらをぬく
哀れなるかなこの子ども

七つとさーのえー
涙流して抱き起こし
幼な子どもの顔見れば
懐かし我が子がしのばれる

八つとさーのえー
やけくそなるのはこの僕ら
敵を全滅せしよとの
命令下すは部隊長

九つとさーのえー
ここで死ぬのはいとわねど
後に残る我が妻子
いかに暮らしてゆくだろう

十とさーのえー
どうせ覚悟は死ぬ覚悟
今日も行くぞと斬り込みに
握る銃剣、鉄かぶと

十一とさーのえー
いつも心はふるさとの
親兄弟のことばかり
いかに暮らしているだろう

十二とさーのえー
二度目の斬り込み行く時に
右腕射抜かれ島尻へ
下がるこの身の悔しさよ

十三とさーのえー
三度の食事も二度一度
飲まず食わずに奮闘す
ああ戦友思い出す

十四とさーのえー
死ぬに死なれぬこの体
去った6月25日
哀れこの身は捕虜となる

十五とさーのえー
護国の花と散りました
戦友思えば涙の身
哀れなるかな我が友よ