<未来に伝える沖縄戦>山へ追われたハンセン病患者 上里栄さん


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 旧平良町(現宮古島市)の久松に生まれた上里栄(うえざとさかえ)さん(83)は幼いころにハンセン病を患い、1944年に同町の島尻にあった「旧国立療養所宮古南静園」(現ハンセン病国立療養所宮古南静園)に入所しました。そのさなかに戦災が降りかかります。患者たちは米軍の空襲や避難先での飢え、マラリアに苦しみました。県立宮古高校1年の久貝楽士さん(15)と下地琉斗さん(15)が上里さんの話を聞きました。

自らの戦争体験を語る元ハンセン病患者の上里栄さん=10日、宮古島市平良のハンセン病国立療養所宮古南静園

 《上里さんは8~9歳のころ、ハンセン病を発症しました。そして通称「真座」と呼ばれていた南静園に連れて行かれます》

 私が南静園に行く前の晩、お母さんは泣いていました。私が何で泣いているのかと思っていたら、お父さんから「明日真座に行くから早く寝ろ」と言われました。お父さんと(人目につかないように)暗い道をトコトコと5時間以上歩いたかな。

 途中、休憩し夜が明けるのを待って、しばらく歩くと園が見えました。そこで白衣を着た人が私の顔を見て、お父さんと何か話していた。お父さんは何も言わずに帰っていった。私は「お父さん、お父さん」と大きな声で呼びました。置き去りにされた私は何が何だか分からずに一人で泣いていました。

 私が入ったのは「天使寮」と呼ばれる少年舎でした。長い廊下と四つの部屋があり、私が入居した部屋は8畳くらいで3人の子どもがいました。私が一番年下で、みんなからかわいがられました。3カ月くらいたって、先輩に鏡を見せられ、自分の病気を理解するようになりました。

 《南西諸島に戦争の影が忍び寄ります。44年5月から9月にかけて、3万人規模の兵隊が宮古島に配備されます。軍は宮古各地にいたハンセン病患者を南静園に強制収容します》

 入所して1年もたたないうちに天使寮は解散となります。後で分かったのは、軍の命令で(宮古全域から)強制収容されてくる患者を入れる場所を確保するためでした。私は園にいた同郷のおじさんとおばさんに預けられました。

 44年10月10日。平良港に停泊していた貨物船が爆撃され沈没した話や街も全焼したとの話が聞こえてきました。南静園にも空襲があるかもしれないと聞き、入所者は各自で壕を掘ります。私もおじさんと寮から100メートルくらい離れた丘の中腹に小さな防空壕を堀りました。

 年が明けた45年3月。1機の飛行機が南から北へ飛んできました。入所者は「友軍だ! 友軍だ!」と言ってバンザイをしました。だけどこの飛行機は敵の飛行機で、今、納骨堂がある丘の上を急旋回して、あっという間に機銃掃射をしました。1人が即死し、重軽傷者も5、6人いました。犠牲者はみんな大人で、私が世話になっているおじさんのお兄さんも重傷を負いました。即死した人の腸が外に飛び出ていて、見るも無残な状況でした。

 《その後の空襲で南静園も焼けてしまいました》

 空襲は激しくなり、一週間後にはたくさんあった宿舎は完全に燃え尽くされました。そのとき私は以前掘っておいた小さな防空壕におばさんと2人で隠れました。壕の上で爆弾が破裂し、壕の目隠しとなるアダンの木や周囲のカヤが燃えてしまい、その熱気と炎が壕の中にまで入ってきて、2人とも生きた心地がせず、震えて泣いていました。

 飛行機は繰り返し、焼夷弾を落とし、爆撃を続けました。消火ができる状態ではなかったです。その時おじさんは海に行っていて留守でした。南静園が燃え尽きる様子を小舟の上から見ていたそうです。私とおばさんは防空壕の中で何時間震えていたか分かりません。やっとおじさんが帰ってきたので外に出ました。

 入所者たちは浜辺にある崖下を避難所として利用するようになりました。私も寮から200メートル離れた崖下に避難小屋を造りました。もちろんケガをしたお兄さんも一緒でした。だけどぼろ切れでまかれた傷口からウジが湧き、臭いので一緒に生活はできませんでした。

 仕方がなく、彼だけの小屋を10メートルくらい離れた場所に造りました。私はおばさんが作った食事を届けたり、傷口を洗うための海水を運んだりする役割でした。お兄さんは苦しみながら2カ月後に亡くなります。なんの治療もできなかったのが残念です。本当に苦しみながら亡くなりました。

※続きは11月22日付紙面をご覧ください。