<未来に伝える沖縄戦>国頭を転々とし避難生活 國吉園さん


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 読谷村渡慶次出身の國吉園さん(84)=読谷村長浜=は、疎開先の国頭村で沖縄戦を体験しました。米軍が上陸する前、國吉さんは家族と一緒に読谷から国頭村に疎開しました。國吉さんの体験を、読谷高校3年の源河萌音さん(17)と同校2年の比嘉光太郎さん(16)が聞きました。

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自身の戦争体験を語る國吉園さん=12月19日午後、読谷村長浜の自宅

 〈読谷村渡慶次で生まれ育った國吉さんの戦争体験は、父新垣喜一さんの元に届いた「赤紙」が始まりでした〉

 1944年、小学3年生だったある日のことです。学校が終わり自宅に帰ると、集まっていた叔母たちが涙を流していました。誰も何も話してくれません。理由を聞くと「赤紙」が届いたとのことでした。父(新垣喜一さん)への召集令状です。
 その後、父は兵役に服すため、家族の元を離れ沖縄を後にしました。妹の京子が生まれたばかりのころでした。7人きょうだいの長男だった父は家族との別れを悲しんでいました。
 伝え聞いたところによると、父は海軍兵として長崎の佐世保に行ったそうです。しかし、どこの部隊に属していたかまでは分かりません。
 父の訃報を聞いたのは、疎開する前でした。近くに住む人の話によると、佐世保から沖縄に戻る途中で亡くなったとのことでした。「10・10空襲」で戦死したとの話も出ましたが、事実は定かではありません。

 〈45年になると、沖縄が戦場になる可能性が高まります。國吉さんは家族と一緒に国頭村辺土名に疎開します〉

 3月ごろ、母ナルと妹京子の3人で国頭村の辺土名に疎開することになりました。国頭村は読谷住民の指定疎開地でした。馬車に乗り、2日かけて辺土名にたどり着きました。
 辺土名では、生活するための民家が既に用意されていました。集落ごとに事前の手続きがなされていたのかもしれません。米軍が読谷に上陸するまでは、ここに身を寄せていました。
 沖縄戦が始まると、家族3人で民家から4キロ先にある避難小屋へと向かいました。この避難小屋も既に用意されていた場所で、集落からは離れた山の方にありました。母のきょうだいやいとこも後から避難小屋に来ました。祖父の万七と祖母のウサも読谷から避難小屋に来ました。約10人での避難生活が始まりました。

※続きは1月9日付紙面をご覧ください。