<未来に伝える沖縄戦>今も消えない罪悪感 宮平盛彦さん(82)下


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
南風原村津嘉山の壕で日本兵6人と隠れていたとき、投降を呼び掛けに来た日本兵を殺してしまったことを証言する宮平盛彦さん=13日、西原町与那城の自宅

 《1945年5月27日、日本軍の第32軍は司令部のあった首里から撤退しました。県立一中2年生の時に戦場に動員された宮平盛彦さん(82)は分隊への派遣先である首里から、南風原村(現南風原町)本部の中隊本隊に合流しました》

 中隊に帰って2、3日後の6月1日に摩文仁(現糸満市)へ向かった。摩文仁までの道はほとんど一本道だった。ちょうど、ひめゆり隊も勤務していた南部の壕から撤退していた。僕らは通信隊なので荷物はそれほどなかったから、あぜ道を通って弾が落ちてきてもすぐに伏せられるように移動していた。

 だが、ひめゆり隊などは負傷者がおり、団体で荷車などを使って大通りを通った。目の見えない人、片足がなくてつえを突き、跳ねながら逃げる人がぞろぞろいた。そこにアメリカの飛行機が機関銃をバリバリ撃った。逃げる元気もなく、やられっぱなしだった。本当に悲惨な状況は今思い出しても心が痛む。

 《6月23日に喜屋武村(現糸満市)山城で部隊が解散すると、宮平さんは仲間の兵士とアダンの密林に8月まで隠れるなどして北上。南風原村津嘉山の県外出身の日本兵5人がいる壕に潜みました》

 10月半ば、「山、山」と合言葉を言いながら壕に入ってきた人がいた。壕の奥は20~30メートルあり、僕らはそこにいた。一緒にいた2人の兵士が「川、川」と近付くと、入って来たのは2人の日本兵で、日本が8月15日にすでに降伏したのを知らせに来たというのだ。12月から本土に帰還できるから、みんなで一緒に内地に帰ろうと呼び掛けに来たのだった。
 だが、僕らはまさか日本が負けるはずがない、2人はアメリカのスパイではないかということで、居場所が知られると大変だからこの人たちは帰すな、ということになった。

※続きは6月22日付紙面をご覧ください。