平和願い継承誓う 対馬丸撃沈から70年で慰霊祭


この記事を書いた人 アバター画像 琉球新報社
オオゴマダラを放つ、つしま丸児童合唱団の子どもたちと参列者=22日、那覇市若狭の小桜の塔

 疎開学童や一般疎開の人たちを乗せた「対馬丸」が米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没してから70年の22日、那覇市若狭の小桜の塔で慰霊祭(対馬丸記念会主催)が行われた。生存者や遺族ら約450人が参列した。参列者は犠牲になった人たちの冥福と平和を祈り、オオゴマダラを空に放った。

 対馬丸記念会の高良政勝理事長は追悼のあいさつで、遺族や生存者が年々減少していることを懸念。教員研修会や映画で対馬丸撃沈の記憶を継承する試みがあることに触れ「これを力に、対馬丸記念館をより充実させたい」と述べた。
 来賓弔辞で県遺族会連合会の照屋苗子会長は「遺族の心の傷は深く、癒えることはない。忌まわしい戦争の惨禍が二度と起こらないよう努力したい」と誓った。
 犠牲になった学童が在籍していた小学校の児童らでつくる、つしま丸児童合唱団が「小桜の塔のうた」などを合唱し、平和を願った。
 対馬丸と同じ時期に学童疎開で鹿児島に船で渡った岸本久子さん(81)=那覇市=は、対馬丸撃沈が人ごとに思えず、小桜の塔の慰霊祭に何度か参加してきた。「疎開先の宮崎に行く前に鹿児島で包帯をしている子どもを見掛けた。近くの人に聞くと『船で遭難した子だよ』と言っていたのを覚えている。後々対馬丸の子と分かった。亡くなった同世代の子たちの霊を慰めたい」と語った。
 那覇国民学校に通っていた妹孝子さん=当時(13)=を亡くした中城村の城間祥介さん(86)は、長女の仲松かおりさん(54)、小学2年の孫(7)と一緒に慰霊祭と対馬丸記念館を訪れた。城間さんは「母は孝子が亡くなったあと、仏壇の前で立ったまま泣いていた。父は既に亡くなっており、誰にも悲しみを話せずつらかったのだろう」と話した。初めて出席したかおりさんは「これからは父に代わっても語り継げるよう、参加していきたい」と話した。
 対馬丸は1944年8月21日、那覇港から長崎に向け出港。翌22日午後10時12分、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、同23分に沈没した。1485人(氏名判明分)が犠牲になった。
英文へ→More than 400 people attend memorial service held for victims of Tsushima-Maru tragedy