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<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>97 地域と組踊(2) 伝播しても上演に条件


<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>97 地域と組踊(2) 伝播しても上演に条件 宜野座村松田区の八月あしびで上演された組踊「本部大主」=2014年
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組踊はなぜ、このように多くの地域に伝承されたのか。これまで組踊の地方伝播は、主に舞台における「上演」を中心に語られてきた。池宮正治は『伊江朝睦日日記』を例にして、「この時(筆者注:1800年代初頭)すでにこうした貴紳の家々にあっては、組踊の私的上演が一般化していた事実を反映していると解される」としている。

 宜保榮治郎は組踊の地方伝播(でんぱ)を書写年代が古い組踊本や、宜野座村松田や名護市久志の「二才中仕立」という表記のある明治初年書写の組踊本の事例から「初演一〇〇年後にはすでに地方の村々では組踊が愛好されていたものとおもわれる」とした。

 大城學は地方への伝播は未詳な部分が多いとしながらも「組踊は廃藩置県後に地方へ多く伝播して、ムラ踊りの演目にとり入れられ、定着した」としている。

 宜保の「愛好され」という表現は「上演」そのものだけを指しているとは思えない。これらの先行研究からは、組踊が初演されてから100年後の近世末期には、組踊が首里の士族たちによる私的上演がなされ、沖縄各地に組踊本が書写されて伝播し、廃藩置県後に多くの地域でムラの芸能として上演されたと考えることができる。

 しかし、組踊は上演だけを伝播と考えてはいけない。その理由として、多良間村の「手水の縁」や石垣島の士族によって書写された組踊本のように、地域によっては伝わった(書写された)組踊本すべてを上演していない地域もあるからだ。

 石垣島を例に挙げてみよう。八重山士族である豊川家には「八重瀬」「忠孝婦人村原組」「久志の若按司」などが、宮良殿内文庫には「姉妹敵討」「多田名大主」「多津山敵討」「中城若松」「本部大主」などの作品が書写されて残されている。そのほか竹原家、安村家、新本家、喜舎場家、伊舎堂家など多くの八重山士族が組踊本を書写して保管している。

 しかし、上演の記録は光緒21(1895)年に「宮鳥御嶽結願之時」に筆写された『躍狂言并組躍番組』があり、「雪払」の配役と着付けが記載されている。石垣島ではこの事例のみが上演を裏付けるものだが、琉球処分後の上演記録となるため、近世における上演を裏付ける史料とはならない。したがって石垣島では多くの組踊本が書写されて残されているが、近世の上演は未確認である。

 このような事例からは組踊(組踊本)は地方に伝播しても、必ずしも舞台に供されるという訳ではないことがいえる。上演のためには首里言葉を基本とした「組踊語(琉球古典語)」を理解する必要があるだけでなく、衣装・小道具の調達、地謡が組踊作品に用いられる歌を演唱できなければならない、という多くの条件があるからだ。

 組踊本とともに、詞章の唱え方や、所作などを指導できる者、近世琉球期においては首里や那覇などの都市部に住む士族が地域に流れる、つまり、首里の士族が当該地域へ赴任される、もしくは教育者としての地域への赴任や、都落ち(屋取・ヤードゥイ)との関係があることを示唆できよう。

(鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)