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<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>104 地域と組踊(9) 士族、役者が各地で伝授


<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>104 地域と組踊(9) 士族、役者が各地で伝授 「屋部の八月踊り」で上演された組踊「大川敵討」=2011年、名護市の屋部公民館
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 このゆかりのある「作品」という意識は、恩納村名嘉真の「玉村の若按司敵討」の冒頭で、仲間節の「仲間」表記を同地名に宛てた「名嘉真節」が用いられていたり、作中に上演地の言葉で話したり、地域オリジナルのマルムンを登場させたりするなどの演出にも同じことが言える。

 これらの演出や組踊本における役名や音曲名の変更がいつ頃から行われたのかは未詳であるが、地域によっては、廃藩置県(1879年)以降に首里から下ってきた旧士族や芝居役者らから組踊を教わったという伝承と、少なからず関係があると思われる。

 『名護市史』によると、恩河(おんが)親雲上(ぺーちん)という人物は、名護市幸喜に「組踊 久志の万才」「組踊 伏山の万才」「組踊 高平良の万才」を伝えたと言い、名護の他の地域(幸喜)でも演目は不明ながら組踊を指導したという伝承が残っている。玉城金三という寒川芝居の役者は、名護の東江・仲尾次、大宜味の謝名城・田嘉里、東村有銘に組踊を伝えたことが伝承されている。これらの人物は組踊だけでなく琉球舞踊も伝授しているので、組踊は伝えなかったが、舞踊や劇だけを伝えた地域もあり、それらを踏まえると1人の人物が広範囲にわたって芸能を伝授していたことがわかる。

 また、名護以外にも屋取(ヤードゥイ、都落ちのこと)した士族たちによって、地域の豊年祭での古典芸能(組踊や琉球舞踊)を伝授した口碑伝承が沖縄本島地域の各地で聞くことができる。このような口碑からは、さかのぼれば王国時代末期から旧慣温存期といった近代初期に組踊が各地で上演されていく流れで、これらの旧士族層が組踊と伝承地域の縁を取り持った、もしくは強くしたという可能性がみえてくる。

 組踊が地域に伝承されていくことは、まだまだ未詳の部分が多い。しかしながら、本稿でみてきたように組踊は琉歌や琉球古典音楽、琉球古典舞踊とともに琉球文化圏全体に一つの文化として確実にその根を下ろしている。また、沖縄だけでなく、近代に海を渡った移民のコミュニティ(ハワイや南米地域など)においても、組踊が上演されたり、組踊本がその地域で上演されたりしている事例がある。これらの事例まで含めると、組踊は琉球文化圏の人々にとって琉球のアイデンティティーを表象する文化であったと考えても良さそうである。

 現在でもなお、地域で創作される組踊や、作家や実演家による新作組踊の創作活動が行われている。古典作品以外でも、地域特有の新作組踊が上演される事例もある。組踊という文化を考える時、王府芸能から始まり、時代とともに「古典」の一部は地域に受け継がれ、さらに現代に新たな作品が誕生するという生きている文学(芸能)であると言えるだろう。

 (鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)