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<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>106 地域と組踊(11) 他作品を熟知して引用


<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>106 地域と組踊(11) 他作品を熟知して引用 組踊「忠臣仲宗根豊見親組」で、与那国の首長・鬼虎(右)に酒をつぐ美人姉妹ら(左)=2016年、多良間村仲筋の土原御願所
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 このような組踊作品に見られる場面や音曲の「引用」は、地域にしか見られない組踊でも確認できる。例えば「忠臣仲宗根豊見親組」では、あふがま、こいがまと両親が別れる場面において「伊野波節」(生別れてやんす かね苦しやある。嵐し声のあらは 我身やきやしゆか)が用いられ、鬼虎の前での酒宴では、あふがまが「袖のふらわしに 御側寄て拝て。我とやれは我とい つてと拝む」という詞章を述べる。別れの場面は、「護佐丸敵討」での鶴松・亀千代と母の別れで用いられる「伊野波節」(生別れだいんす かにくれしやあもの あらし声のあらは わ身やきやしゆが)と同じであり、酒宴では鶴松・亀千代が踊る「はべらぶし」で「かにやる御座敷に 御側寄て拝がで 我身やればわどい つでど見やべる」と歌われる。さらに鬼虎を討つ前に仲宗根豊見親が他の豊見親たちへ「手配り」を行う場面がある。

 「忠臣仲宗根豊見親組」の場合、「護佐丸敵討」から親子の別れ・酒宴の様子を「引用」し、鬼虎征伐の場面では、家臣団によるあだ討ちにおける「手配り」を「引用」している。前述したが、このような組踊における先行作品からの「引用」は、即、それを用いた当該作品の価値を落とすことにはならない。組踊における「引用」は先のような音曲(とその詞章。琉歌の場合は八・八・八・六の一首)や、場面を想定させる短い詞章、「手配り」のような場面全体を構成する要素にとどまり、それ以外の部分に当該作品だけに見られる独自の要素がある。

 「忠臣仲宗根豊見親組」の場合は、朝薫と田里両方のあだ討ち作品から「引用」していることを独自性として挙げることができるだけでなく、与那国遠征前の「祥雲寺」での祈願、鬼虎たちの歌詠みの場面(柿本人麻呂や山部赤人を引き合いに出した笑い)、鬼虎征伐後の与那国島にいた住人とのやりとりが独自性として挙げられよう。なにより重要なのは、作者が「引用」先の作品を熟知していなければ、組踊作品創作における先行作品の「引用」ができないのである。つまり、多良間(もしくは宮古地域)で創作された「忠臣仲宗根豊見親組」の作者は、他の組踊作品を熟知した上で創作していることが「引用」から指摘できるのである。

 現在、多良間では「護佐丸敵討」の組踊本は見つかっていない。しかし「手配り」の場面のある「大川敵討(多良間では「忠孝婦人村原組」)」「忠士身替之巻(多良間では「忠臣公之組」)」は組踊本が伝承され、さらに八月踊りで上演されている。このことから「忠臣仲宗根豊見親組」では「手配り」を上記2作品から学んだ可能性を指摘できるが、「護佐丸敵討」からの「引用」からは、「護佐丸敵討」が多良間へ伝承していた可能性があると指摘できる。今後の組踊本発見を期待したい。

(鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)