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<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>111 組踊における話芸(1) 進化する「会話」「語り」


<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>111 組踊における話芸(1) 進化する「会話」「語り」 父の敵討ちに来た鶴松と亀千代兄弟があまおへに酒を注ぎ、酔わせる「二童敵討」の一場面=2023年7月22日、浦添市の国立劇場おきなわ
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 「クミヲゥドゥイ チチガイチュン」とは組踊を観劇しに行く、という意のしまくとぅばである。また本コラムのタイトルも「聴事(チチグトゥ)」を冠しているが、これは組踊が上演された際、その演目の出来が良かった際に用いられる褒め言葉である。組踊内で褒め言葉は「出来た〳〵(ディキタディキタ)」や「見事(ミグトゥ)」という詞章であるが、しまくとぅばでは「きく(聴く)」ことに重点を置いていることがわかる。

 はたして組踊は「聴く」だけで観劇することができるだろうか。答えは当然「否」であろう。やはり親子の再会の場面で歌われる東江節には、演者によるお互いに片方の手を肩の位置まで上げ、挙げきったところで座るという所作があることで、作品の内容が深く伝わると言える。

 しかし、組踊の基本はその「唱え」にあるということは組踊の形式からも明らかである。男性の唱えには按司の唱えと一般男性の唱えの違い(これは前者を「強吟(ちゅうじん)」、後者を「和吟(わじん)」と呼ぶこともあるが、吟づかいの名称は立方ごとに異なるようである)があり、女性の唱え、若衆の唱え、そしてマルムンの唱えと、それぞれが異なる。さらにそれらの唱えは単に決まった抑揚だけを行うのではなく、登場人物の心情が変わる際に、8・8・8・6の韻律を破って唱える「破調」の際には抑揚が変わるため、立方はそれらを覚えて唱えなければならないのである。

 また、戦前から組踊の唱えと音楽がレコードに吹き込まれ、愛好者はこのようなレコードを手本にして組踊の唱えを練習したようである。真境名安興はこれを「朗読会」と呼んでいた。

 したがって、組踊の立方は唱えを稽古することが必然的に重要度が高いように思われる。だが、それは所作を軽視しているわけではない。作品内では踊りを行う作品もあるし、なにより琉球舞踊・組踊において「歩み」が基本であり、基本であるからこそ難しいのである。

 逆説的に「聴事」を考えてみると、所作は言うまでもなく完璧にできている上で、組踊におけるせりふや音楽を鑑賞していると考えた方がよいか。もし、そのような考えの上で「チチガイチュン」と言っていたのであれば、組踊には間違いなく琉球芸能の最高峰の技芸が用いられていると解釈できよう。

 このような組踊は基本的な唱えだけでなく、「話芸」と捉えられる部分があると筆者は考える。筆者の言う組踊の「話芸」とはすなわち、登場人物の「会話」や「語り」を指す。登場人物同士の会話やある特定の人物の語りがそれぞれの組踊作品を唯一無二に仕上げていると言っても過言ではない。そして、その「話芸」は、組踊作品が創作されることによって進化(あるいは深化)していると考えられる。

(鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)