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【寄稿】日米兵・民間人が見たサイパン戦(下) 「忘れえぬ」証言記録 同じ過ち繰り返さぬよう 吉永直登


【寄稿】日米兵・民間人が見たサイパン戦(下) 「忘れえぬ」証言記録 同じ過ち繰り返さぬよう 吉永直登 日本兵、日本人に投稿を呼びかける米兵=サイパン、1944年6月(米国立公文書館所蔵)
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 『忘れえぬサイパン 1944』。本のタイトルはサイパン戦に巻き込まれた民間人、あるいは死闘を繰り広げた兵士の気持ちを最も短い言葉で表すとどうなるかと考え、頭に浮かんだ言葉だ。時がいくら経過しようと、とても忘れることなどできない。サイパン戦を経験した誰もがそう感じたと思う。そのことは戦いの体験者、関係者が残した証言、記録によく表れている。

証言収集

 新著をまとめるに当たり盛り込んだ証言には、二つの大きな特徴がある。1点目は体験者本人への取材ではなく、本、資料の引用や、彼らが寄稿した文章などを中心に据えたことだ。もちろん本人への取材が好ましいことは分かっている。私自身、『テニアン 太平洋から日本を見つめ続ける島』の取材では、元住民の人たちに何回も会った。大半が80代後半から90代だったが、笑顔で応じていただいた。ただ今回はそれをしなかった。もちろん今も元気な人たちはいらっしゃるが、『テニアン―』執筆時からさらに5年が経過し、取材は難しくなっていた。代わりに取った方法は、彼らが残した証言や文章を可能な限り集め、忠実に再現することだった。

 私の前に積み上がった多くの文章と言葉。それには想像以上の迫力があった。大手出版社から本を出された人もいたし、自費出版した人もいた。戦後沖縄に戻ったサイパン出身者でつくったサイパン会が出した『サイパン会誌』には、彼らにとって故郷でもある島の悲劇を悲しむ証言、史実が詰まっていた。彼らは戦史研究者ではないし、ものを書くプロでもない。しかし、それと史料価値は関係ない。体験者でなければ書けない内容が詰まっていた。ある10代の女性が書いた、沖に現れた米艦隊群の様子は実に具体的だ。水陸両用戦車に乗った米兵の様子を目の前で見ているように描写している。体験者の証言、文章は80年前の惨劇を見事に再現していた。

 2点目は、本書を読まれた人は気付いたと思うが、元米兵の証言を多く盛り込んでいる。研究者やジャーナリストが出した太平洋戦争の本、本人の回顧録などのほか、米国の博物館が元兵士を対象に行ったインタビューの動画、音声もある。これが戦場の実情をつかむ上で非常に役立った。

 ここで私は「現代のテクノロジーへの感謝」を書かなくてはならない。それは、「外国の情報を現地に行かなくても簡単に手に入れることできる」時代になったことへの感謝だ。一般市民が日本にいながら米国の情報を入手するなど、昔は考えられないことだったが、今はオンラインショップやインターネットの活用でそれが可能だ。

 サイパン戦に関する本は、私の想像よりはるかに多くあった。研究者やジャーナリストのほか、元兵士本人が出した本も何冊もあった。本だけではない。国立太平洋戦争博物館(米テキサス州)とニューヨーク州軍事博物館(ニューヨーク州)は体験談の保存に熱心で、多くの元兵士のインタビュー映像や音声を保存、インターネットで公開している。英文テキストを添えたものもある。インタビューは2000年から10年頃に多く行われていた。太平洋の戦場にいた10代後半から20代の兵士が、80歳前後になった頃だ。

マッピ山の崖「スーサイドクリフ」を見上げる米兵たち=サイパン、1944年7月9日(米国立公文書館所蔵)

米兵が見た戦闘

 「スーサイドクリフ」と呼ばれる断崖で起きた日本人の「集団投身自決」は、米兵が残した証言の大切さを特に感じさせた。考えてみると当たり前なのだが、崖で起きた出来事は崖の前にいる人たちが最もよく見ている。崖下に集まった兵士は、自分自身も一つの油断で岩陰の日本兵から狙撃を受ける緊張感の中、崖と周辺の様子を神経を集中させ見ていた。そして彼らは、その記憶を高齢になるまで忘れなかった。多くの日米兵の遺体を見たはずの米兵だが、私の印象では、特に彼らの脳裏に焼き付いていたのは、崖で見た民間人の女性、子どもたちの惨劇だった。日本人は死んでも構わないと考えた将校、兵士もいただろう。ただ民間人の女性、子どもの苦悶(くもん)する様子や表情は、若かった彼らにとってあまりに衝撃的で、戦後になっても記憶から消えることはなかったようだ。

 インタビュー事業では、多くの元兵士が部隊や自分の活躍を自慢げに話すのだが、質問者から日本の民間人の様子を尋ねられると、突然トーンが変わる。一瞬黙ったり、暗い表情を浮かべたりする。涙声になる人もいた。その表情、声のトーンの変化は、彼らが目にしたことが、いかに悲惨な出来事だったのかを、我々にも教えてくれる。

意図的な報道

 本書は、メディアの問題にもページ数を割いた。サイパン戦後、日本の新聞が伝えた集団投身自決の記事は、米軍の従軍記者が米雑誌に掲載したルポが情報源だった。当時の中立国にいた特派員が米雑誌を見て書いたのだ。ただ直訳ではない。「集団自決」の悲惨さを強調した英文は、原文にない修飾語を加え、戦死を美化する文章に日本語訳されていた。

 一方、あえて報じられなかったとみられるものもあった。その一つは、沖縄戦が始まる4カ月前の1944年11月に米雑誌に掲載された、サイパンの日本人収容所のルポだ。戦闘が終結し、落ち着きを取り戻し始めていた日本人や、親を失いながらも元気に遊ぶようになった子どもなどの様子が書かれていた。しかし「集団自決」と異なり、日本で報じられることはなかったとみられる。

 私は当時の新聞が、米軍下で生きている日本人がいることを、あえて伏せた可能性があると考えている。民間人も軍人とともに見事な最期を遂げたと報じていたからだ。今、流行の言葉で言えば、戦争遂行を強引に進める政府、大本営への「忖度(そんたく)」だ。もし収容所の記事が沖縄の人たちに伝わっていたらどうだったろうか。沖縄戦も違った形になったのではないか。そうとも思った。メディアの「忖度」は今も指摘されている問題。長く通信社記者をしてきた私にとっては、反省も含めたテーマだ。

 今年はサイパン戦から80年。来年は沖縄戦、広島、長崎への原爆投下、そして終戦。そのいずれも80年の節目を迎える。歴史を繰り返してはいけない。あの惨劇の被害者を二度と出してはいけない。本書がその決意を共有し、日本が同じ過ちを犯さないための力に少しでもなれば、これほどうれしいことはない。

 (ジャーナリスト)


 吉永 直登(よしなが・なおと) 1963年生まれ。NHK記者を経て1991年に共同通信社に入社。40代後半からライフワークで「移民」「戦前・戦中の南洋」の取材を続け、2019年に『テニアン 太平洋から日本を見つめ続ける島』を出版。移民の歴史について学ぶ団体「移民と旅する社」を主催。