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「本部ミャークニー」 上 情緒ある道行毛遊び歌<島唄を求めて>2曲目 小浜司


「本部ミャークニー」 上 情緒ある道行毛遊び歌<島唄を求めて>2曲目 小浜司 伊野波の石くびりで「本部ミャークニー」に思いをはせる仲程利光さん=6月19日、本部町(喜瀬守昭撮影)
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 民謡歌手・松田弘一(1947~2019)によると「実際の毛遊び経験者は1920年生まれが境界」とのこと。歌い手でいうと、1920(大正9)年生まれの嘉手苅林昌(~99)や喜納昌永(~09)が最後の毛遊び世代だといえる。私の聞き書きでは山内昌徳(1922~2017)がギリギリで、津波恒徳(1927~)が先輩達の使い走りをして、登川誠仁(1932~2013)は幼い頃自宅近くの毛から漏れ聞こえる歌声で三絃(さんしん)を覚えた。戦争の足音により毛遊びは姿を消し、現在ではその体現者はほとんどいないということか。

 古くは神女の歌舞、祭りなどの神事的な行事を沖縄では「遊び」とした。その延長として毛遊びがあり、庶民の生活の中での唯一の娯楽となった。最近では「毛遊び」といってもピンとこない人が多い。宜野湾出身で、民俗学者で裁判官でもあった、佐喜真興英(1893~1925)の著書によると「島(新城集落)の青年男女は、上流の僅かの例外を除き、盛んにMo asi bi(野遊)をやった。九時頃夕食がすむとぞろぞろ通りに出で、原に出て三味線や鼓に和して歌ひ躍り、又舞方と称して2人の青年が仮装的拳闘をやった。それは12時か1時まで続いた。帰りには幾組みかの男女二人連れが出来た。島の上流家庭の男女は親同志の相談によって結合したが、大多数は野遊びで恋に陥ちそれが結婚まで導いた」(『シマの話』)。

 「舞方」とは「かぎやで風」を速いテンポにして演奏し、歌に合わせて、男二人が円陣の中央で体力を競い合うパフォーマンス。農村での男性のモテる条件はマッチョでなければならなかったようだ。三絃弾き(地謡)はさぞかしモテたかと思うとそうでもなく「ガジャン(蚊)だけにモテたのは確か」とは嘉手苅林昌。

伝統的琉歌が現存

 とまれ、毛遊びの場で一番歌われた歌が「ナークニー」で、その中でも最もよく知られ歌われるのが「本部ナークニー」である。本部では「ミャークニー」と発音する。本来「ナークニー」はその場の雰囲気に合わせて即興で歌い、歌詞は泡沫(ほうまつ)のように消えてなくなる運命にあるはずだ。しかし、本部には「本部ミャークニー」という、レコードの歌詞だけではない、昔ながらの伝統的な琉歌が元歌として現存する。それは本部という地域性を見事にとらえ、若者の情緒あふれる「道行“毛遊び”歌」として、格調高く一つの文学的高みに押し上げる民謡として、受け入れられ歌われているのだ。

 筆者はかねてから、歌詞の中に刻まれる地域的要素を求めなくてはと思っていた。そこで今回、ご当地伊野波出身で農業に従事しながら郷土史を研究している仲程利光(70)に案内と教えを乞いながら「本部ミャークニー」を辿(たど)る道行遊びを梅雨空の下敢行した。先ず我々は字大堂のため池から出発した。

今はない地名も

 小浜 「本部ミャークニー」の歌詞は「大堂原若地」という地名から始まりますが、大堂といえばこの池が目印になると思いますが。

 仲程 自分たちは「大堂のマーイチ」としか言わなかった。恐らく明治以降の首里系の人達がヤードイ集落を形成して、地名もつけたのではないかな。大堂の「堂」は「平たい」という意味で、地形も小さな盆地で農業に適しているとして住み始めたと思います。「若地」というからそれよりも後に入植した人たちの地名ではないかな。サムレーとヘイミンの半々の集落であったとされるけど、すぐ向こうはもう北山城ですからね。

 大堂は『本部町史』によると「本部町の北東部、標高150米余の石灰岩(カルスト地形)に囲まれた山間小盆地に位置し、今帰仁村に隣接する。町内では最も小さな行政単位の集落」。もともとは伊野波の屋取集落であり字伊野波の一部であった。屋取集落とは、士族の帰農によって各地で形成された小集落のこと。

 小浜 「真下地ぬくびり」というのは?

 仲程 「本部ミャークニー」には今では消えてしまった地名が沢山(たくさん)出てくる。これを一つ一つ紐(ひも)解きながら解明していくのが楽しい作業。「真下地(ましちゃーじー)」も「黒山」も今では知っている人がほとんどいない。

 大堂の集落を具志堅、謝花方面に進むと「ゆきんが橋」があり、橋を渡って下っていくとかつて真下地という小さな集落があった。途中の農道に入ると、木の生い茂った苔(こけ)が生えるような小さな舗装道があり、ガーミバンタ(亀の甲の形をした小さな崖)のそばに「真下地ぬくびり」というかつて普通の人々が歩いたであろうくびれた道跡がある。今は通れそうにない。ハブもいそうだ。「本部ミャークニー」の作者はここを通って大堂原に向かった。ということは謝花方面の男たちが真下地のくびり道を通って大堂原若地での毛遊びに参加して、それから黒山を通過して伊野波と満名へと向かったはずである。

 小浜 古典音楽「伊野波節」で有名な「石くびり」は石小坂(いしこひら)と当てると分かりやすいと思うけど、真下地のくびりの「くびり」は「くびれた道」でいいのですか?

 仲程 どちらでも良い。山道を通る時に、通りやすくするために石を敷き詰めたり、また土が流れる道をつくると、自然に道はくびれるんじゃないかな。「伊野波の石くびり」も今では面影ないけど小さい頃には、雨水を防ぐために石ころが敷かれていた。

(以下次号へ)
(敬称略)
(島唄解説人)

※注:Mo asi biの「o」は上に「~」


<肝探(ちむさぐ)いうた>詩歌にシマへの好奇と愛着

 「本部ミャークニー」

一、大堂原若地(うふどうばるわかじ) 真下地(ましちゃじ)ぬくびり
  黒山(くるやま)ぬ下(しちゃ)や 伊野波(ぬふぁ)と満名(まんな)

二、満名から伊野波 流(なが)りやい浜川(はまが)
  遊(あし)びする泉河(しんが) 花ぬ屋比久(やびく)

三、遊でぃ太田原(うふたばる) 戻(むどぅ)る与那城(ゆなぐしく)
  暁(あかちち)ぬまひゃい 港渡(んなとわた)い

四、長さ長崎(ながさち)ぬ 漁火(いざいび)ぬ美(ちゅ)らさ
  船浮(ふなう)きてぃ美らさ 渡久地港(とぐちみなと)

五、渡久地から登(ぬぶ)て 花ぬ元辺名地(むとぅひなじ)
  遊び健堅(きんきん)に 恋(くい)し崎本部(むとぶ)

 「本部ミャークニー」を道行毛遊び歌として筆者は解釈している。単にシマからシマへの移動のための道歌や労働歌ではなく、自らの住む地域の生活の中で、風土に溶け込みながら情熱を謳歌(おうか)し、三絃を携えて、道々での出会いや、あのシマ、このシマへの好奇と愛着を地名の中のイメージでとらえたプチ旅行ともいえる詩歌。間切(村)の中でも山から海へと、特色のある場所を巡り、歌い、語る。民謡研究家の仲宗根幸市(1941~2012)は「本部ミャークニーの歌詞は本部の各集落を歌掛けにするのは歌遊びのルールにしていた」とし、戦後歌遊びが衰退するにつれ、その唱法も都会的になり、すっかりレコード通りになってしまった、と嘆く古老の話を記述している(『民謡の旅』)。それにしても琉歌の語彙(ごい)と調子と切れ。これを三絃の節に即興で乗せて風景に溶け込ますには、相当な教養と遊び心が必要となってくる。そして最後に「渡久地から登て」の琉歌を古典音楽の「本部長節」の本歌から採用し、下句を八八で歌うところを八六「恋し(崎)本部」と歌い、ぼかしながら強調する。遊び歌「本部ミャークニー」の真骨頂というところか。