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沖縄で「最大の倒産」からの再建 琉球海運の構造改革と戦略<Who強者How強者 沖縄企業力を探る>5


沖縄で「最大の倒産」からの再建 琉球海運の構造改革と戦略<Who強者How強者 沖縄企業力を探る>5 RORO船「ちゅらしま」の前に立つ琉球海運の宮城茂会長=2日、那覇市の那覇新港ふ頭(小川昌宏撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 島袋 良太

 伝統的な分野である海運業に加え、陸上の倉庫保管や輸送事業を一手に手掛け、サービスの多様性を強みに近年「総合物流企業」へと変貌し、飛躍を続ける琉球海運(那覇市、比嘉茂社長)。2024年3月期決算は売上高が256億円超、純利益は21億円超と共に過去最高を記録し、めざましい成長ステージに立っている。その裏で、過去には会社が倒産する憂き目を経験した。約半世紀前の挫折から長い時間をかけ、再建を果たした。

 戦後復興と民生安定を目的に、琉球政府から海上輸送業務を引き継ぎ、1950年に設立された。だが76年10月12日、会社更生法の適用を申請する。負債総額は146億円。経営が傾いた原因は75年に開催された海洋博覧会だった。当時県史最大の倒産で、県経済を苦しめた「海洋博不況」の象徴として全国ニュースにもなった。

 海洋博を機に船で沖縄を訪れる観光客が増えると見込み、わずか3年の間に貨物と旅客を一緒に運ぶ「貨客船」5隻を建造した。当時の総資産40億円に対し、投資規模は120億円に及んだ。

 だが石油ショックのあおりで海洋博の来場者は伸びず、旅客輸送の主流も飛行機にシフトし、当ては外れた。そして資金繰りは行き詰まった。「一言で言えば時代を読み間違えた。そして不得意な分野に手を出してしまった」。宮城茂会長は倒産の要因を振り返る。

  会社更生を終えたのは約20年後。そこから自力の再建計画が始まり、経営が安定し始めるのはさらに約10年。再起まで30年を要した。

 立て直しのために何をしたのか―。

 まず進めたのは不採算部門である旅客事業からの撤退と、貨物事業への集中だ。

 会社更生を終えた95年、初めてとなる貨物専用のRORO船「みやらび」を導入した。RORO貨物船は「ロールオン・ロールオフ」型貨物船の略。コンテナだけでなく、貨物を積んだ大型車両や荷台ごと船で運べる。天候に左右されずに港の荷役作業ができ、作業量も軽減するため、「スリム化」と「高稼働化」を徹底できた。

 貨客船の場合は、乗客がほとんどいなくても安全対策上1隻当たり50人近い乗組員を必要としたが、貨物船は15人程度に減らせる利点もあった。

 1隻ずつ貨客船から貨物船への切り替えを続け、旅客事業から完全撤退したのは2006年。「16年をかけて構造改革した」(宮城会長)。

 この間の状況がよく分かる統計がある。沖縄を訪れる国内観光客のうち、海路での訪問者は77年に約16万人。空路は約111万人だった。しかし19年には空路が約692万人まで増加。海路は約5万人に減り、空路客の規模は海路客の100倍以上まで膨らんだ。

 一方、県外から沖縄に入る貨物の98%以上は海上輸送、空路は1%程度とされる。長期トレンドを見ると、旅客事業から撤退し、「有望市場」の貨物事業に特化するのは、必然的な戦略だった。

 同じ時期に苦しんだ県内大手海運企業があった。08年に144億円の負債を抱えて破産した有村産業だ。破産に複合的な要因はあるものの、有村産業は豪華客船を相次いで建造した投資戦略が命運を分けたとされる。

琉球海運最大級の搭載能力を持つ新RORO船「かりゆしⅡ」=16
日午前、那覇市の那覇新港ふ頭(小川昌宏撮影)

 貨物事業に集中した琉球海運は、運航の合理化も進めた。98年には沖縄―東京間、沖縄―阪神間でそれぞれ1隻ずつ運航していた貨物船の航路を再編。沖縄―大阪―東京―大阪―沖縄と、2大都市を経由して運航する仕組みに変更した。代わりにこの航路の運航ペースは増やし、1隻当たりの稼働率は上がった。

 さらに日本郵船子会社の近海郵船(東京都)と互いの船の空いたスペースを融通し合う「スペースチャーター」を導入した。空きスペースの“撲滅”に取り組み、無駄をなくした。

 貨客船から貨物船への切り替えとスリム化の結果、従業員数は縮小し、最少の150人程度になった。一方、財務基盤が整った後、事業は「拡大路線」へとかじを切り、現在は約240人まで増えた。どう拡大したのか。海運会社が着目したのは「陸上」だった。 (島袋良太)