壕は人がいっぱいで入れず でんぷん、黒糖で飢えしのぐ 湧上洋さん <未来に伝える沖縄戦>


壕は人がいっぱいで入れず でんぷん、黒糖で飢えしのぐ 湧上洋さん <未来に伝える沖縄戦> 沖縄戦の体験を語る湧上洋さん=4月23日、南城市(喜瀬守昭撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 渡真利 優人

 

 玉城村船越(現南城市)で生まれ育った湧上洋さん(89)は10歳の頃に沖縄戦を体験しました。沖縄本島に上陸前の米軍が空襲や艦砲射撃を始めた1945年3月24日以降、家族と金武村漢那(現宜野座村)へ避難しました。湧上さんの体験を南城市立玉城中学校2年生の前田紗蘭さん(13)と3年生の城間麻央さん(14)が聞きました。


 《湧上さんは1935年1月1日に4人きょうだいの長男として生まれました。45年当時は祖父母、両親、弟、2人の妹、叔父の計9人で暮らしていました》

 私は玉城国民学校に通っていましたが、学校では皇民化教育が徹底的に行われていました。天皇陛下のために死ぬことは軍人の本望だと言われていた時代です。戦場で死ぬ時は必ず「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬんだと教えられました。意味の分からない言葉を一言一句、暗記させられたりもしました。これが「教育勅語」であると分かったのは戦後しばらくたってからのことです。

 私が4年生になった44年には、学校で竹やり訓練や避難訓練、防火訓練が盛んに行われるようになりました。竹やり訓練では、当時敵国だったイギリスのチャーチル、米国のルーズベルト、中国の蒋介石に見立てたわら人形を運動場に置き、胸めがけてやりを突きました。児童はかけ声に合わせて真剣な表情で訓練をしていたことを覚えています。

 《44年3月22日には第32軍が編成され司令部が首里に置かれます。「玉城村史」によると、村には満州に配備されていた第9師団(武部隊)が駐屯します。以後、戦闘部隊が次々に配備されました》

 夏休みが始まって間もない7月中旬ごろ、武部隊の第19連隊第1大隊の行軍が船越にやってきました。玉城国民学校を本部にして駐屯するようになります。馬にまたがる兵隊の様子や銃を担いだ勇ましい姿は頼もしかったのを覚えています。一方で「まもなく戦争が沖縄で始まるのでは」と不安を抱くようにもなりました。

 2学期になると、学校の校舎が大隊の兵舎として使用され、授業ができなくなりました。そのため、地域のムラヤー(公民館)や民家の建物を仮校舎として使用し、クラスごとに分散して授業が行われました。

※続きは5月15日付け紙面をご覧ください。