78年越しに届いた「卒業証書」 疎開先の台湾から元学徒へ 忘れられないあの日の空、友の姿 きょう終戦の日


78年越しに届いた「卒業証書」 疎開先の台湾から元学徒へ 忘れられないあの日の空、友の姿 きょう終戦の日
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 戦後79年。今年6月、太平洋戦争の混乱で卒業できないまま故郷へ戻った沖縄の男性に、当時通っていた台湾の学校から「卒業証書」が贈られた。親切にしてくれた現地の人たち、激しい爆撃で失った友人たち、戦後に味わった苦難ー。95歳になった男性がいま、伝えたいこととは。(中村万里子、呉俐君、大城周子)

 「ありがとう。ありがとう。ありがとう…」。病気のため発するのが難しくなった声を絞り出すと、思いとともに涙があふれた。78年のときを経て手にした「卒業証書」。いとおしそうに抱きしめる宮城政三郎さん(95)の姿に、その場にいた皆が感極まった。

 2024年6月21日。「沖縄慰霊の日」を2日後に控えたその日、那覇市内で宮城さんの「名誉卒業証書授与式」が行われた。与那国島出身の宮城さんは太平洋戦争末期、疎開先の台湾で学徒として日本軍に動員され、戦争の混乱の中で卒業できないまま沖縄へ引き揚げていた。

 卒業証書の贈り主は、宮城さんが当時通っていた高雄第一中学校の後身にあたる高雄高級中学の荘福泰(そう・ふくたい)校長だ。沖縄の地元紙「琉球新報」の記事をきっかけに、宮城さんが長年にわたって戦争体験を語り継いでいることを知って授与を決めた。「世界平和を推進する姿に深く敬意を表したい」。宮城さんは来し方に思いを巡らせるように、その言葉をじっと聞き入っていた。

卒業証書を授与し、ともに涙ぐむ宮城政三郎さん(右)と荘福泰校長=6月21日、那覇市

カレーライスは「カラシ入り汁かけ飯」

 現在那覇市に暮らす宮城さんは、台湾からわずか111キロ東にある与那国島の出身。小学生だった1937年に日中戦争が始まり、日常は戦争一色に染められていった。教科書には命を投げ出して「天皇の国」を守るよう記され、各地の学校には天皇・皇后の御真影(写真)が保管された「奉安殿」が建てられた。

現在の与那国島=2022年撮影

 漁船を所有する父親の仕事の関係で一時期を台湾で過ごした後、宮城さんは那覇にあった沖縄県立第一中学校へ進学した。「中学の入試では教育勅語を覚えているか、書けるかと聞かれた」。中学校の校門そばには、わら人形と竹やりが置かれていた。わら人形を敵に見立て、竹やりで突いてから校舎に向かうのが生徒らの“日課”だった。

 1年生の2学期には太平洋戦争が始まった。英語の時間は廃止され、大本営発表の新聞記事を読み聞かせる時間に。敵国の言葉だとあらゆる言葉も日本語化された。例えば野球のバットは「打棒」ストライクは「正球・直球」カレーライスは「カラシ入り汁かけ飯」に。英語以外でも合格を「命中」、不合格を「轟沈(ごうちん)」と言い換えるなど、軍への一体化や戦意高揚が進められた。

県立第一中学校での「軍事教練」の風景。撮影時期は不明だが、宮城さんが入学するより前と思われる(養秀同窓会提供)

 3年生の終わり頃には授業はほぼなくなり、軍の壕堀りや農家の手伝いなど「勤労奉仕」に費やされるようになった。飛行場の建設作業へ1週間泊まり込みで行くこともあり、食事は「玄米とほとんど具のない海水を薄めたような汁だった」。

 1944年3月、南西諸島の防衛強化を目的に第32軍が創設され、沖縄では地上戦へ向けた準備が進められていった。「どうせ死ぬなら父や母と死にたい」。宮城さんは家族のいる台湾への疎開を望み、その年の夏に高雄第一中学校に編入した。

県立一中時代の宮城さん(後列右端)

荷車に積んだ友の遺体を…

 当時、日本の統治下にあった台湾。戦争が激しくなると44年には台湾人にも兵役義務が課せられ、翌年の1月以降、高雄も空襲に見舞われるようになった。軍港近くにあった宮城さんたちの家は空襲で全焼し、家族で山奥の新威(シンウェイ)という小さな集落に避難した。

 「日本人は私たちだけでしたが、台湾の人は親切にしてくれました」。母親が高雄の学校へ戻ることを決めた宮城さんを祈祷師のところへ連れて行った際には、無事を祈ってお守りを首に下げてくれた。

戦前の高雄第一中学校(高雄高級中学提供)

 45年3月、高雄第一中の3~5年生が臨時招集され、学校裏手にあった寿山(ソウサン)に駐屯する「特設警備隊」に学徒兵として動員された。宮城さんは小隊の分隊長を任された。「天ぷらを持ってきたよ」「宮城さん、この戦争は負けるよ」。隊員は気さくで、“内緒話”を交わすこともあった。

 5月のある日。同級生らと午前の作業を終え、昼ご飯を食べようとしていたときだった。「退避!」の大声が飛んだ。仲間と散り散りになって走り、近くにあった穴に飛び込んだ。「バババーッ」。上空の敵機から次々と爆弾が落とされ、なぎ倒された大木に「ビュンビュン」と破片が突き刺さる音がした。宮城さんは穴の中で正座したまま、国への忠誠が示された「軍人勅諭」を唱えた。

1945年、日本の軍港として使用されていた高雄港への米軍による爆撃(高雄市立歷史博物館提供)

 1時間ほど続いた攻撃が落ち着き、外に出ると爆風に飛ばされた遺体が目の前にあった。14人から15人ほどいただろうか。全員が宮城さんと同じように動員された学徒だった。遺体を荷車に積み、火葬場へ運んだ。死を伝えられた親たちは泣き叫んでいた。「たまらなかったです…」。今もその姿が目に焼き付いて離れない。

 終戦で招集が解かれ、8月31日には除隊式が行われた。雲一つない青空に、米軍の飛行機が旋回していた。「戦争が終わった、助かったと感じました。もう逃げなくてもいいんだ、と。よその世界に来たような、夢を見ているようでした」

戦中戦後を振り返る宮城政三郎さん=2023年1月、那覇市

「敗戦国」の自分、思い知らされた

 与那国への闇船が出ているとの情報を聞き蘇澳(スオウ)の港へ家族と向かう途中、汽車で台湾人の同級生に再会した。「宮城君はどこに行くの?」と聞かれ「故郷の島に引き揚げるよ。君たちはどこに行くの?」と返すと、同級生たちは台湾大学に受験に行くところだという。机を並べて学んでいた友人との境遇の差に「がっかりした。戦争に負けた国の惨めさを思い知りました」。

かつて蘇澳の港があった場所、現在は「南方澳第一漁港」になっている=2018年撮影

 故郷へ戻った後、間もなく小学校教員となった宮城さん。「教育の目的は平和で民主的な国家と社会をつくる人間の育成。一人一人違う意見を大切にする人間がいてこそ、民主国家ができる」。その信念の下、子どもたちに戦争の悲惨さや国の過ちを伝えてきた。

 沖縄県立第一中学校に在籍していた元学徒らでつくる「一中二〇会」の会長を長年務め、沖縄戦に動員された県内21校の元学徒らでつくる「元全学徒の会」でも幹事を務めた。

 沖縄戦で最後の激戦地となった糸満市摩文仁にある平和祈念公園。2017年、沖縄戦で「学徒隊」として戦場に駆り出された21校の名を刻んだ「全学徒隊の碑」が建てられ、19年には1984人の犠牲者の数も碑に明記された。

沖縄戦で「学徒隊」として戦場に駆り出された全21校の名を刻んだ「全学徒隊の碑」の除幕式に出席する元学徒ら=2017年3月14日、糸満市摩文仁の平和祈念公園

 「ここに我立てば 戦の悲劇がよみがえり心いたむ 語れども語れども語り継がん 伝えてよ ああいつまでも 伝えてよ 伝えてよ」。宮城さんは会の活動や友への思いを込めた歌「ああ、いつまでも伝えてよ」をつくった。

語れども語り尽くせない「平和」

 今年6月には、県立第一中の後身にあたる首里高校の合唱部が、元学徒らが集う平和祈念の会で「ああ、いつまでも伝えてよ」を披露した。直前に病に倒れた宮城さん。その影響で言葉がうまく発せられなくなったが、“後輩”たちが歌う姿に目を細め、何度もうなずき涙した。

 戦争を生き抜いたが進学を諦めざるを得なかった自分、10代で日常も未来も奪われた学友、はつらつと青春を駆け抜けている目の前の高校生たち。さまざまな思いが交錯したのかもしれない。

【関連動画】学徒の思い、歌いつなぐ 首里高合唱部

「ああ、いつまでも伝えてよ」を練習する首里高校合唱部の生徒ら
=2024年6月、那覇市首里の同校

 78年越しに台湾から届けられた「卒業証書」。高雄中学校に残っていた学籍簿には宮城さんは「所在不明」となっていたが、校内の審査会で適格性が認められ授与に至ったという。

 いま、中国が台湾に侵攻する「台湾有事」を懸念する声が高まり、沖縄でも自衛隊増強が進む。

 卒業証書授与式で、荘校長は「私たちは歴史の教訓を学ばないといけない。武力ではなく一緒に座り、話し合うことが大事だ」と語りかけた。宮城さんは体調を崩す前に台湾の中学生たちに向けて撮影していたビデオメッセージを通して思いを伝えた。

 「戦争で死ぬために生まれたわけではない、平和な世に生きたかった学友の無念を私たちは忘れてはなりません」

「世界平和」への思いを共有し、手を握り合う宮城さんと荘校長=2024年6月21日

つなぐ「沖縄戦」の記憶