「おばあちゃん」がつないだ奇跡 Anlyが心に刻む言葉とは? 沖縄戦79年


「おばあちゃん」がつないだ奇跡 Anlyが心に刻む言葉とは? 沖縄戦79年 今年から沖縄へ拠点を移したAnlyさん。10年ぶりに地元で「慰霊の日」を迎える=6月11日、那覇市首里(大城直也撮影)
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 海が見えた。もう逃げ場はない。米兵に見つかり、16歳の少女は生きるのを諦めた。「敵に捕まるぐらいなら」。手りゅう弾を握りしめたそのとき、思いがけない声が聞こえた。「それを置きなさい」

 アニメ「NARUTOーナルトー疾風伝」のオープニングテーマ曲「カラノココロ」などで知られる歌手Anlyさん(27)。沖縄本島北部の本部半島から北西約9キロに位置する伊江島で、生まれ育った。高校は那覇へ。デビューを目指し、今の事務所の社長、名城文夫さん(65)宅で音楽制作に励んだ。

 名城さんの母がご飯を作ってくれ、ゆんたく(おしゃべり)相手にもなってくれた。血はつながらないが、「おばあちゃん」と呼んで慕った。16歳で出会った「おばあちゃん」が、同じ16歳だったときの戦争体験を話してくれた。

海岸で投降した女子学徒隊員(那覇市歴史博物館所蔵)

 おばあちゃんは那覇にあった県立第一高等女学校の生徒だった1945年3月、沖縄陸軍病院に動員されたという。女子生徒222人と引率教員18人からなる「ひめゆり学徒隊」。後に日本軍と共に南部に撤退し、激戦のさなかの解散命令で、多くの犠牲者を出した。

 育ての親でもある伯母の様子を見に首里の家に戻ったとき、戦火が激しくなった。学徒隊と合流できず、親族5人で本島南部へ。「鉄の暴風」とも例えられる米軍の艦砲射撃が襲いかかり、いとこは身を伏せたまま二度と起き上がらなかった。

 南へ南へと逃げ続けた。手りゅう弾で死のうとしたとき、伯母の声が響いた。「それを持っていたら撃たれる。置きなさい」

 「今は、生きよう」。伯母はそう言って、投降を促した。

 「とっても奇跡的な言葉ですよね」。Anlyさんは感極まったように言う。もしも、おばあちゃんが生きていなかったら、と考える。

 「事務所の社長は生まれず、私が音楽をする環境もなかった。いろんな人の諦めなかった思いが自分につながっている」

小学6年生のとき、伊江村の村制100周年式典に踊りで参加した際のAnlyさん(提供)

 そして、沖縄戦と向き合った歌ができた。戦後77年の2022年に発表した「Alive」だ。

 <島の空は知ってる/いくつもの戦いと涙/何度でも立ち上がる/諦めない強さを>

 6月、沖縄は祈りの季節を迎える。民間人を含めて約20万人の命が奪われた沖縄戦。日本軍の組織的戦闘が終わったとされる6月23日の「慰霊の日」には、沖縄全戦没者追悼式が開かれる。

 Anlyさんの故郷・伊江島もかつて、苛烈な戦闘が繰り広げられた。