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6月、沖縄は祈りの季節を迎える。民間人を含めて約20万人の命が奪われた沖縄戦。日本軍の組織的戦闘が終わったとされる6月23日の「慰霊の日」には、沖縄全戦没者追悼式が開かれる。
歌手Anlyさんの故郷・伊江島もかつて、苛烈な戦闘が繰り広げられた。
上陸した米軍に、日本軍は住民も交えた自爆攻撃で対抗。県史によると、日本側の死者は、村民約1500人を含む4794人に達したという。戦後は米軍による強制接収で土地を奪われ、今も米軍の訓練場や滑走路が面積の35%を占める。わずか1周22キロの小さな島は「沖縄の縮図」と形容される。
「戦争が始まるの?」不安で母に何度も
Anlyさんが思い出す慰霊の日の光景は例えば、小学校の廊下に貼り出された戦場の写真だ。焼け焦げた土地や戦車、死体の写真もあった。
「廊下を通るのが怖かった。戦争は怖い。そう植え付けられた」
平和学習がある6月は不安になった。「戦争が始まるんじゃない?」と母に何回も尋ね、「始まらんて!」としかられた。
島にはガマと呼ばれる自然壕(洞窟)が多数あり、住民の避難場所になった。その一つ、「アハシャガマ」では住民の「集団自決」(集団強制死)が起きた。
Anlyさんはガマに入れないという。「胸騒ぎがして、何が起きたか、見えるぐらいに感じる」。平和学習で訪ねたときも足が止まった。
ガマに入ることができない分、戦争体験者の証言集を読むようにしているという。「読まないといけないと思う」と言い切る。
最近、896ページもある証言集を読んだ。偶然、郵便局長だった曽祖父の手記を見つけた。郵便船が爆撃されたため自ら船を買って搬送したこと。従業員11人のうち5人が亡くなり、女性2人も白鉢巻きで切り込み隊に加わったことー。Anlyさんにとって初めて知ることばかりだった。
お茶を飲んだから、助かった命
祖父母からも家族の戦争体験は聞いたことがない。つらい記憶をえぐりだすようで聞けなかった。ただ、家族の間で語り継がれている大事な「教訓」がある。
「人の家に行ったらお茶は2回飲みなさい」
本島に行く予定のあった祖父が、知人の家に寄り、お茶を出されて話がはずんだ。「もう一杯、どうぞ」と勧められ、港へ行くのが遅れた。おかげで九死に一生を得た。
その日は1948年8月6日。「伊江島米軍LCT爆発事件」が起きた日だった。戦後、伊江島には米軍の未使用弾が大量に残された。それを海上投棄するため輸送船(LCT)へ積み込んでいたとき、荷崩れが起きて爆発。ちょうど連絡船が入港し、港は多くの人でごった返していた。107人が亡くなった。
戦争を生き抜き、戦後を生き抜いた人がいる。Anlyさんは言う。「いろいろな奇跡が重なって自分がいる」
迷ったら「山」を目指せばいい
Anlyさんは母方の祖父がアメリカ人だ。高校時代には生まれつき黒髪でないことを証明する「地毛申請」が必要だった。その校則に反発して作った「MANUAL」の歌詞は、ルーツに対する誇りを映す。
<あたしの茶色の髪も瞳の色も/背の低さも島の言葉も/ホントに素敵よ/生まれつきの自分が好き>
Anlyさんにとって「神聖で大事な場所」がある。城(ぐすく)山。伊江島のシンボルで、県民にも「伊江島タッチュー」の愛称で親しまれる標高172メートルの岩山だ。
「何か大きな仕事をするとき、東京に行くとき、城山でうーとーとぅとする(手を合わせて祈ること)。守ってくださいね、って」
城山は、島のどこからでも見える。「道に迷ったら城山を目指せばいい」。Anlyさんは物事をポジティブに捉える力がある。たとえ迷っても、帰るべき場所がある。
島の言葉も、クオーターであることも、平和への思いも、自分の大切な個性だ。歌には「Love yourself」のメッセージを込める。あなた自身を愛してみて、と。
「戦争の証言を読んでいると『国のために死ぬ』とか『捕まるのは恥だから死ぬ』とか出てくる。そんな死はやるせない。自分を愛することで、誰かにやさしくできる。それが少しずつでも平和につながればいいのかな」
焦土から復興した故郷がいとおしい。「歴史を知ったら復興している姿がもっと輝いて見える。人間ってすごいなぁと思う。同時に、人間って怖いなぁとも思う。戦争で簡単に壊してしまう」
生まれ育った伊江島には、沖縄には、戦跡や米軍基地が身近にある。なぜだろう。考えてきたし、みんなにも考えてほしいー。Anlyさんの思いだ。
95歳になった「おばあちゃん」が最近、こんなことを言った。「今は限りなく戦前に近づいている。ものが言えなくなるのは、あっという間だったよ」。それを聞いた時「怖かった」。平和が遠のいているように感じる。私たちの身に何が起きようとしているのか、目を凝らしたい。
(宮沢之祐)