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「大嫌いだった」沖縄、Awichが見つけた答え 北島角子さんとの縁…明かされる家族の歴史 【動画あり】


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

7月30日、沖縄県本島中部にある沖縄アリーナ。「ヒップホップのクイーン」として活躍する沖縄県出身ラッパー、Awich(エーウィッチ=本名・浦崎亜希子)さん(36)が姿を現すと、満員の会場が一斉に沸き立った。
イベントは8月のFIBAバスケットボールワールドカップを盛り上げようと開催され、沖縄のラッパーたちが熱いライブを繰り広げた。

ライブ前、忙しいスケジュールの合間を縫ってAwichさんが訪ねた場所がある。那覇市の国際通りのすぐ裏手にある伯母・武富ゆき子さん(90)の家だ。目的はゆき子さんの戦争体験を聞くこと。「もう身内で戦争体験を語れる人は、ゆきおばさん1人だけ。今のうちに聞いとかなきゃっていう思いがすごくあった」

コロナ禍もあって会うのは数年ぶりだという2人。ゆき子さんは今回初めて、Awichさんがラッパーとしてブレークしていることを知ったという。「あっこは歌手になったの!?」。めいの活躍に驚き、我がことのように喜んだ。
ゆき子さんも歌が得意といい「私の方がうまいかもよ」とおどけてみせる。2人は仏壇の前に座り、和やかに話が進んだ。

Awichさんと伯母の武富ゆき子さん=2023年7月30日、那覇市内

11歳の少女が見た空襲 ただ必死に逃げた

ゆき子さんは1933年生まれ。戦前の実家は、那覇港に面する那覇市通堂町(とんどうちょう)にあり、母サチさんは夫直秀さんの親戚と旅館を営んでいた。
直秀さんは家族と離れ、南洋諸島のパラオで食堂を経営していた。ゆき子さんは「お嬢さん扱いされて」不自由のない生活を送っていたが、戦争で一変する。

1944年10月10日、米軍機による大規模な空からの攻撃が那覇をはじめ沖縄各地を襲った。那覇の市街地の9割が焼失した「10・10空襲」だ。ゆき子さんや家族も自宅を焼け出され、「それから三日三晩かけて歩いて、やんばる(沖縄本島北部)へ逃げたの」。

10・10空襲で米軍の攻撃を受ける旧那覇市街=1944年10月10日(県公文書館所蔵)

ゆき子さんの体験を真剣な表情で聞き入っていたAwichさん。「空襲があったときはどんな気持ちだったか覚えていますか。怖い、死ぬかもしれないって思いましたか」
質問にゆき子さんは笑って首を振った。「小学生だったからね。ただ逃げるのに一生懸命で、どこに逃げればいいかって。そう考えるだけで、大変だった」

薄れゆく記憶「私の財産、もっと聞いておかなければ」

10・10空襲後、ゆき子さんは母と弟と共に、本部町謝花にある母の実家に身を寄せた。当時3歳になろうとしていた弟の直行さんには、実家のほかにも北部の山中などを転々と避難した記憶がある。
比較的余裕のある那覇での暮らしに対して、避難生活では芋だけでなくソテツの実を食べて命をつないだ。ソテツの実には毒があり、当時は毒抜きに失敗して命を落とす人もいた。

ゆき子さんたちの兄・直義さんは当時、那覇市立商工学校(現那覇商業高校)に通っており、「学徒隊」として戦闘に動員された。直行さんは、兄が爆弾を抱えて米軍に突っ込んだと聞いている。ゆき子さんによると、戦後になって亡くなったとみられる場所を母が訪ねたが、遺骨は見つからず代わりに石を持って帰ったという。

戦時中の体験を語る武富ゆき子さん=2023年7月30日、那覇市内

ゆき子さんの話を聞いた後、Awichさんは「その時を生き抜いた人のしたたかさ、強さみたいなものを感じました。自分の中にもその強さはあると思います。受け継がれてきた、困難を生き抜く力というか。自分の表現にもつながっています」と語った。
ただ、特に聞きたかったという、戦争のさまざまな局面でゆき子さんがどういう感情を抱いたかについては、本人の記憶がおぼろげな部分もあった。戦後78年がたち、つらい記憶は特に薄れているのかもしれない。

後に紹介するが、Awichさんの母もまた壮絶な経験を持っている。「家族や身近な人の体験や経験をもっと聞いておかなければいけないと痛感しました。忙しくて家族や親戚にも会う時間が少なくなっていって、話す時間がなくなっていく」というAwichさん。
そして、こう言葉を継いだ。「伯母や母が生き抜いてきた体験談は私にとってとても尊い財産。それを私がどのように昇華するかで娘や次世代の意識が変わっていくかもしれない。アーティストとしてもっと意欲的に注力していきたい」

Awichさんと伯母の武富ゆき子さん=2023年7月30日、那覇市内

道端に横たわる親子にそっと服を…

祖父の福原兼吉さんと3歳頃のAwichさん(Awichさん提供)

Awichさんは、104歳で亡くなった母方の祖父・福原兼吉さんの戦争体験も子どもの頃から聞いてきた。「沖縄戦のことも含めて自分のルーツだし、自分のアイデンティティーを形成するものとして知りたい」

兼吉さんは徴兵され、飛行機整備などを担う部隊の一員として沖縄県中部の読谷村の「北飛行場」などに配置された。戦時中、兼吉さんは道端で亡くなっている親子を見て心を痛め、自身の服をかぶせたという。戦後は米軍から物資を盗む「戦果あぎやー」もしていた。

父の直行さん(81)も戦争を生き抜いた1人だ。1941年、真珠湾攻撃の翌日にパラオで生まれた。
空襲を警戒し灯火管制が敷かれる中での出産。母サチさんは同じ本部町出身で親しかった沖縄芝居役者の上間昌成さんから芝居の幕を借り、窓に張って明かりが漏れないようにしたという。

戦後も家族ぐるみの付き合いが続いた上間さんの娘は、戦後活躍した役者の北島角子さんだ。伝統的な沖縄芝居にとどまらず、沖縄戦を題材にした一人芝居を全国各地で上演し、平和の尊さを伝えた。

戦後に沖縄芝居を代表する役者として活躍した北島角子さん=2014年撮影

Awichさんも影響を受け、米国留学時は北島さんの琉歌と舞台写真が載った本を部屋に飾っていたという。いつも広げていたページにはこんな琉歌がつづられていた。

「島愛さあらは 世愛さあらは 語たれ継じ行ちゅし 我達たまし」
(しまかなさあらは/ゆうかなさあらは/かたれちじいちゅし/わったたまし)

意味は「島を愛するならば、この世を愛するならば、語り続けることが、自分たちの責務です」だ。
その精神はAwichさんの音楽にも息づいている。「高校生ぐらいのときに(芝居を)見て、格好いいなって思っていました。舞台の中でキャラクターのマインドに入るやり方はラップにも似ていると思います」

夫を亡くし失意のどん底、父が言った「お前だけじゃない」

沖縄戦当時幼かった父直行さんの記憶は限られているが、戦後も苦労しながら自分たちを育てた母の姿をAwichさんに語ってきた。
母サチさんは日雇いの畑仕事をしながら、ゆき子さんが高校に進む学費をなんとか捻出したという。「母は周囲から『日雇いの仕事をしているのに女の子を高校に行かせられるのか』とまで言われたが、プライドを持って生きていたと思う」

かつてAwichさんが失意のどん底からはい上がるきっかけを与えたのも、直行さんの厳しくも愛のある言葉だった。米国で結婚した夫と娘と写るAwichさん(Awichさん提供)

Awichさんは2006年にCDデビュー、同時期に米国アトランタの大学に進学した。留学中に米国人男性と結婚し、2008年に長女の鳴響美(とよみ)さん(15)が生まれた。
家族3人で日本で暮らそうと決めていた矢先の2011年6月、夫がトラブルに巻き込まれ、銃殺された。Awichさんは娘と沖縄へ戻り、怒りと悲しみの中で苦悩する日々が続いた。

そんな姿を見た直行さんは言った。「ウチナーンチュ(沖縄の人)は全員、戦争で大事な人や家族を失ったんだ。お前だけじゃない。くよくよするな」
県民の4人に1人が命を失ったとされる沖縄戦。サチさんも息子の直義さんを失い「相当沈んでいた」という。「お袋の姿は痛々しかった。その中で僕と姉さんを育てた。そんなことが沖縄の人たちにはあったんだ」

厳しい時代を生き抜いた先人たちと同じ力が自分にもあるはずー。
Awichさんは父の言葉に背中を押された。一歩ずつ前に進み、音楽活動も再開した。

家族3人の写真(Awichさん提供)

真っ黒に焼け焦げた子を見た

Awichさんの母・米子さん(73)は戦後の沖縄で最大の米軍機墜落事故といわれる「宮森小米軍ジェット機墜落事故」の生存者だ。

1959年6月30日、石川市(現うるま市)上空を飛行中だった米軍嘉手納基地所属の戦闘機が突然火を噴いて操縦不能となり、住宅地に墜落した。
衝撃で跳ね上がった機体が近くの宮森小学校に突っ込み、死者18人、重軽傷者210人を出す大惨事となった。

ジェット機墜落事故で負傷した児童=1959年6月30日

当時、米子さんは4年生だった。
「(給食代わりの)ミルクの時間に突然、わぁっと教室の窓から火が燃えているのが見えた。何事かと思って外に出たら、先生たちが『こっち、こっち』って呼んでいるわけ。中庭に集められると、パンツのゴムだけが焼け残って真っ黒になった子どもが『痛いよ 痛いよ』って言いながら走り回っていた」

宮森小には米子さんの姉と妹の3人も通っていた。事故の話を聞いて学校に駆けつけた母は、必死で娘たちを捜した。幸い、姉妹は全員無事だった。
慰霊祭に参加するなどしてきた米子さんは、静かに言葉を選びながら言う。「今になって分かる。(命を)つなげられなかった人たちのことを思うと、どんなに悔しかっただろうって・・・」

Awichさんは「インタビュー」と称して、テレビ電話などで母の体験談を聞いてきたという。娘のアーティストとしての姿勢について尋ねると、米子さんはこう語った。「沖縄戦を生き残った人たちがいて、宮森小の事故でも生き残った人たちがいるからこそ、自分たちが生きてるっていうことをいつも感じてると思う。歌にも、そういうところがある」

Awichさんの両親(左から)浦崎米子さんと直行さん=2023年8月4日、那覇市内

今度は娘が通う学校に…米軍機から窓が落下

2017年12月13日、米子さんにとって宮森小の悪夢を思い出させる事故が起こった。
Awichさんの娘・鳴響美さんが通っていた宜野湾市の普天間第二小学校の運動場に、米軍ヘリの窓が落下したのだ。ヘリは小学校に隣接する米軍普天間飛行場から飛び立った機体だった。
窓の重さは約8キロ。運動場には約60人の児童がおり、落下場所から一番近い児童までは10メートルほどしか離れていなかった。Awichさんはすぐ迎えにいけなかったため、米子さんが小学校に駆け付けた。「またか。孫までこういう目に遭うなんて」。米子さんに恐怖と怒りが湧いた。

Awichさんは、普天間第二小学校での窓落下事故をきっかけに一つの曲を書いた。沖縄の日本「復帰」から50年を迎えた2022年5月15日にリリースした「TSUBASA」だ。娘の鳴響美さんもラップで参加している。

普天間第二小に設置された避難所。ネットの向こうには米軍普天間飛行場の滑走路がある=2018年9月撮影

変わらない空 子どもたちに「翼を」

「TSUBASA」のミュージックビデオは宜野湾市普天間や、米軍普天間飛行場の移設が計画される名護市辺野古でも撮影された。

「自由に飛んでみたいんだ 青く広がる空を/失くしたものとか/会いたい人とか/さぁ 見つけに行こう」
優しく歌い上げ、最後は力強いラップで締めくくる。
「こだまするbeats どんな爆音にも負けない」

Awichさんは曲に込めた思いをこう説明する。
「沖縄の美しい青い空に飛び交う飛行機、ヘリ、ジェット機たちを私たちは子どもの頃から見上げています。宮森小学校に通っていたお母さんの時代から、普天間第二小学校に通っていた娘の代まで、それは変わっていません。『TSUBASA』で表現したかったのはそれでも強く生きる子どもたちの姿勢です。見上げるだけじゃなく、自分も翼を広げて、どこへでも行けるし何にでもなれる、そう思ってほしい」

娘の鳴響美さんとポーズをとるAwichさん=2020年12月撮影、那覇市内

「大嫌いだった」そして「心から大好きだった」沖縄

Awichさんは家族らから学んだ沖縄の歴史や、受け継いだアイデンティティー、自身の体験を楽曲に昇華してきた。

代表曲の一つ「Queendom」では自身の壮絶な半生を振り返りつつ、「大嫌いだったOkinawa is my home」と故郷への愛と葛藤も歌っている。
「大嫌いだった」のは、「子どもの頃から何となく沖縄の排他的な雰囲気を感じ取っていた」からだという。そして「それはきっとたくさん傷付いた歴史からきている」という。

ラップと出会った14歳の頃の写真(Awichさん提供)

かつて琉球王国だった沖縄は日本に併合され、沖縄戦では本土決戦を遅らせるための「捨て石」にされた。
戦後は住民らから奪った土地に米軍が基地を建設し、日本本土にあった米軍基地も移転してきた。そして今もなお、在日米軍の専用施設の7割が沖縄にある。

Awichさんは「歴史や境遇を憎んだり、人を責めたりするだけでは前に進めない」と思うようになったが、「成長期で反抗期の頃はこうした考えを話し合える相手が少なく、孤独を感じる」こともあったという。

「それでも、傷ついた歴史を知っているから、今も美しい海や空を知っているから、心から大好きだったし、ほかでもないこの島が私の故郷なんだ、という喜びがありました。それが私の葛藤でした」

今は複雑な歴史を踏まえた上で「それぞれが『ではどうすればいいのか』『自分はどうなりたいのか』を考え、一生懸命やり抜くこと」が大事だと考えている。
「私にできることは音楽です。先人たちの芸能を受け継ぎ、自分も歌を書き続け、歌い続けること。それがこの世界で私にできることです」

娘の鳴響美さんとステージで歌うAwichさん=2023年7月30日、沖縄アリーナ

世界とつないでくれる「沖縄の心」

2023年7月30日に沖縄アリーナで行われたライブは、両親の米子さんと直行さんも客席で見守った。娘の鳴響美さんもステージに立ち、Awichさんと一緒に堂々と「TSUBASA」を歌い上げた。

Awichさんがラップを始めた14歳の頃、直行さんは「ギャングの音楽だ」と思い、猛反対したという。初めてライブに出ると聞いた時は出張先から飛んで帰り、ライブ当日に無理矢理やめさせた。だが出張先に戻る飛行機の中、「娘の芽を摘んでしまったのではないか」と激しく後悔したという。Awichさんが本気だと理解した後は、一番の応援団になった。

本名の「亜希子」は、米子さんが「アジア大陸のように大きな希望を持つ娘に育ってほしい」と付けた。Awichはそれを直訳した「Asian Wish Child」の略だ。
その名の通り、沖縄から全国へ活躍の場を広げ、世界の舞台も見据える。

ライブでは、MONGOL800の名曲をアレンジした「琉球愛歌 Remix」を歌う前、「忘れるな琉球の心」という歌詞を引用し、力強く宣言した。

「この沖縄で生まれて育って、そして今までいろんなところに行ってきた。いろんなところに行くたびに、沖縄で育てられた心が私を世界の人とつないでくれるって実感しています。この島で偉大な先輩たちが紡いできた歌、それを受け継いで、私の言葉を加えて、そして歌うことが成長につながっています。これから私は世界に挑戦するけど、そのときもこの琉球の心が世界に連れて行ってくれる。そう信じています」

沖縄から世界へ、力強く羽ばたこうとしているAwichさん=7月30日、沖縄アリーナ

取材と文:伊佐尚記、大城周子

動画制作:又吉康秀

(この記事は琉球新報とYahoo!ニュースによる連携企画です)


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