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疎開先の台湾で学徒兵に 同級生の遺体を運び火葬 宮城政三郎さん<未来に伝える沖縄戦>


疎開先の台湾で学徒兵に 同級生の遺体を運び火葬 宮城政三郎さん<未来に伝える沖縄戦> 沖縄戦当時の体験を話す宮城政三郞さん=7月12日、那覇市首里金城町の養秀会館
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 与那国町出身の宮城政三郎さん(93)は、日中戦争から太平洋戦争の敗戦までの十五年戦争の間、与那国小学校や県立第一中学校で、徹底的に皇民化教育と軍国主義教育を受けました。疎開した台湾では学徒兵として動員され、戦争を体験しました。一中の後身となる首里高校1年の玉那覇麻侑さん(15)、宮里剛史さん(15)、外間凜さん(15)、仲里直輝さん(15)が話を聞きました。

 《宮城さんが小学生だった1937年、日中戦争が始まります。教育の目的は「皇国臣民」の育成だったといいます》

 臣民とは、天皇が支配する国民、分かりやすく言えば家来です。教科書には「命を投げ出して天皇の国を守りなさい」と書いてありました。天皇には絶対従わなければなりません。そう教育を受けていたので、日本国民は戦争になっても「天皇のために」と敵に突っ込んで死んでいったと思います。

 各学校には「奉安殿」があり、天皇皇后の写真と教育勅語(明治天皇が述べた教育方針)が納められていました。与那国小学校では校内にありました。普段は閉じられていて、天長節(天皇誕生日)や建国記念日などに校長先生が真っ白い手袋をはめて開けていました。一中の入学試験では教育勅語を覚えているか、書けるかと聞かれました。

沖縄市に残る「奉安殿」

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 《宮城さんは一中に進学し、1年生の2学期、太平洋戦争が始まります》

 中学校の校門を入ると、わら人形と竹やりが置かれていました。竹やりで、敵に見立てたわら人形を突いてから学校に入るのです。

 英語の時間は廃止され、大本営発表の新聞記事を読み書かせる時間になりました。日本は開戦翌年の半ば以降、太平洋の戦線で負け続けていましたが、日本が勝っていると、うその戦果を発表し続けていました。

 「英語は敵の言葉だ」と日本語に言い換えられました。バットは「打棒」、ストライクは「正球・直球」、ボールは「邪球」、カレーライスは「カラシ入り汁かけ飯」。それ以外も合格は「命中」、不合格は「轟沈」と言い換えました。戦意高揚のためです。

 ガダルカナル島で一中出身の大舛松市大尉が戦死し、軍人最高の栄誉といわれた「個人感状」を県人で初めて授与されました。一中生は「全校、大舛大尉に続け」を合言葉に、国難に生徒として本分を果たすよう強調されました。

 3年生の終わりごろには授業はほとんどなくなり、勤労奉仕作業をしました。日本軍の壕掘りや農家のキビ刈りの手伝いです。小禄飛行場はスコップで掘りました。読谷飛行場の建設作業は1週間泊まり込みで行きました。食べ物は玄米とほとんど何も入らない海水を薄めたような汁でした。

県立第一中での「軍事教練」の風景(養秀同窓会提供)

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 《44年3月、沖縄に32軍が編成され、地上戦へ向け準備が進められます。宮城さんは、家族のいる台湾へ疎開を希望します》

 44年6月ごろ、どうせ死ぬなら台湾にいる父や母と死にたいと、一中そばの交番に行きました。パスポート発行は巡査の権限でした。「台湾に疎開します。許可してください」と言ったら、巡査に「ばか野郎」と怒鳴られ、帰りました。

 サイパンが陥落した7月、政府の学童疎開方針が出され、学校から疎開許可と転校証明書をもらえましました。それで台湾の高雄第一中学校に転入学し、9月1日から普通通りの授業もありました。軍事教練では、原っぱで銃を持ち、地べたに腹ばいになってほふく前進の訓練をしました。

 高雄には日本の軍港があり、45年の1月か2月に大空襲がありました。港近くの実家が焼け、家族で山奥に避難しました。山には日本人は私たちだけで台湾人は親切にしてくれました。

 45年3月、高雄高雄第一中学校の3~5年生が学徒隊を編成して特設警備隊に入隊しました。私は第2小隊の第2分隊長でした。5月30日か31日に山で木を切る作業の途中、お昼ご飯の時に敵機が来ました。「退避!」との掛け声で散り散りになって逃げました。

 山の下の穴に飛び込んだとたんに、爆弾がパパパーと落ちてきました。1時間くらい、何度も繰り返し空爆されました。入った穴に松の木が覆いかぶさって、木の幹にビュンビュンと破片が突き刺さる音がしました。私は穴の中で正座して、皇居に向かって「軍人勅諭」を唱えていました。

 この空爆で部隊の14、15人が戦死しました。穴に入っていなければ私も死んでいました。同級生の遺体を荷車に積んで、1トン爆弾が落ちてできた池をよけながら火葬場に行って、火葬して帰ってきました。親たちに知らせると山に来て泣いていました。たまらなかったです。

1945年、日本の軍港として使用されていた高雄港への米軍による爆撃(高雄市立歷史博物館提供)

 《45年8月、日本の敗戦で宮城さんのいた部隊は武装解除します》

 8月31日に除隊式がありました。山の上の原っぱに整列して、鉄砲とかを並べました。雲一つない青空で、アメリカの飛行機が、パイロットが見えるくらい低空で旋回し、私たちを見ていました。それを見て戦争が終わった、助かったと感じました。もう逃げなくてもいいんだ、と。よその世界に来たような、夢を見ているようでした。

 与那国へ引き揚げのため、高雄から汽車で蘇澳という町へ向かいました。その途中、台湾人の同級生に会い、「宮城君、どこ行くの」と聞かれて、僕は「自分の島に帰るよ。あなたたちはどこへ行くの」と聞きました。同級生は「台湾大学に受験しに行く」と言うのです。戦争に勝った生徒は大学に受験しに行くのに、負けた僕は島に帰る、とがっかりしました。

 蘇澳では、日本の憲兵とみられる男を台湾人が殴って蹴っているのを見ました。憲兵は戦時中、スパイを徹底的に探し、台湾人を差別していじめていました。川には、日の丸や日本語のプレートがいっぱい投げ捨てられていました。どれほど台湾人が日本を憎んでいたか分かりました。

 終戦直後、与那国は密貿易の拠点になり、香港、台湾、東南アジアからいろんな品物が運ばれてきて、沖縄からは米軍の下がり物を沖合で売買していました。すごい繁栄ぶりでした。

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 《戦後、教員になった宮城さんは、平和で民主的な人を育てる教育の大切さをかみしめてきました》

 平和が一番です。平和だから自由があります。戦争は自由ではなく、ものも言えません。平和は黙っていてやって来るものではありません。

 日本国憲法を守って行動することが平和への道です。皆さんに望むのは、県外の生徒、外国、特に中国、朝鮮、韓国、東南アジアの国々、台湾など日本が侵略した国々、地域の生徒との交流です。なぜ戦争をやるのかも考えてほしい。資源の獲得や植民地支配への欲望が原因です。

 現在の教育の目的は、平和で民主的な国家と社会をつくる人間の育成です。一人一人違う意見を大切にする人間があってこそ、民主国家ができます。

 学校には、戦前にはなかった生徒会があります。生徒が自分たちで決めるのは、民主主義の実践を大切にしているということです。校則についても、本来は生徒自身の問題だから、生徒が主体になって決めるのが民主主義だと思います。


<メモ>沖縄、台湾の皇民化教育

 1871年、台湾に漂着した宮古島民らが、先住民のパイワン族に殺害された事件を口実に、明治政府は台湾征伐や琉球処分を行い、94年の日清戦争後に台湾を植民地化するなど、いわば沖縄を踏み台にアジア侵略を進めました。

 日本は沖縄や占領地の朝鮮、台湾などで現地住民を「皇国臣民」、つまり大日本帝国の国民として教化し、戦時動員態勢に組み込む皇民化教育・政策を徹底。戦争になれば死をもって国のため天皇のために尽くすことを掲げた「教育勅語」の暗唱、神社参拝、「創氏改名」などを強要しました。