東風平村世名城(現八重瀬町)で生まれ育った中村康子さん(94)=旧姓島袋=は、県立第二高等女学校2年の14歳のころ、沖縄戦を体験し両親と兄弟を失いました。中村さんのひ孫の沖縄尚学高校3年の城間ありすさん(17)、山口瑠菜さん(17)、1年の城間あんなさん(15)が聞きました。
〈1930年7月15日、7人きょうだいの一人娘として生まれました〉
実家は当時の東風平村世名城にありました。屋敷にはサトウキビを搾って黒砂糖にするサーターヤ(製糖小屋)もあり、住み込みで働く人もいました。完成した黒砂糖はたるに詰めて、自家用の馬車で那覇の問屋まで運んでいました。
基本、朝食と昼食はイモとみそ汁でしたが、夕食には白いご飯とみそ汁、おかずもありました。今思えば、当時としては裕福な暮らしだったと思います。
〈東風平国民学校から県立第二高等女学校(二高女)に進学しました。将来の夢は先生になることでした〉
東風平国民学校の6年生の時、那覇市松山にあった二高女に進学しました。1943年4月入学です。先生になるのが夢でした。私は他の子たちよりも幼くして入学したので、背も低くあどけない顔をしていたからか、先輩たちが頭をなでて「かわいい」と言ってくれました。制服は白い帽子にヘチマ襟。学校に行くのは楽しかったです。
軽便鉄道で通学しました。午前8時15分に授業が始まるので始発で向かい、家から東風平駅までは徒歩で行って、そこからは糸満線で那覇駅まで乗りました。当時の列車は遅くて那覇まで約2時間もかかりました。空が暗くなってから帰ることも多かったです。
〈1944年に東風平村に日本兵が駐屯し始めます。10・10空襲の日も軽便鉄道で通学の途中でした〉
1944年のいつか忘れたけれど東風平国民学校に山部隊の第3478連隊本部(捜索第24連隊)が置かれました。学校近くの川沿いに、かやぶきの兵舎もありました。母は戦地にいる兄たちの姿と重なったのか、兵隊に食べ物をあげていたようです。学校の帰り道の伊覇に、兵隊が並んでいる家がありました。不思議に思ったけれど、あとで「慰安所」だったと分かりました。
10月10日の朝、いつも通り学校に行く途中でした。津嘉山駅に着いた途端、汽車が停車して降ろされました。客車と切り離され、兵隊を乗せた機関車だけが那覇に向かいました。米軍の飛行機も見ていなかったので最初は防空演習だと思いました。だけど「那覇に空襲」の言葉を聞きました。
10・10空襲で校舎が焼失し、先生は家の近くの日本兵の手伝いをするように言いました。それが当たり前だと思いました。「勝利の日まで」を歌いながら、作業場に行きました。壕を掘る際に出た土を運び出しました。ヘチマ襟の制服から、モンペになったのもこの頃です。
※続きは7月17日付け紙面をご覧ください。