9月になりましたが、まだまだ沖縄は暑い日が続いています。暑い時こそ怪談。怖い話で涼を得ようとするのは今も昔も変わらないようです。
明治から大正に改元した1912年8月5日、琉球新報で突如連載が始まった「怪談奇聞」。読者に投稿を呼び掛け集めた〝実話系〟怪談は、約1カ月間34回にわたって連載されました。当時の琉球新報社に、毎日2、3通の投書が届くほどの人気コーナーだったようです。
1912年の沖縄は、明治時代から続く風俗改良運動、旧慣改革で日本への同化政策が進められ、近代化と差別の間で揺れ動いた時代でした。「琉球王国」の名残を色濃く残した「沖縄」のリアルな怪談を紹介します。
連載第7回目は「見える人」が見た怪異です。
文章は当時の表現を尊重していますが、旧字や旧仮名遣いは新漢字、ひらがなに変換し、句読点と改行を加えています。一部、不適切な表現がありますが、原文のままとしています。
怪談奇聞(七)
一日橋の怪しげな女学生
いつかの貴紙に与那原街道一日橋の幽霊談が載っていましたが、一日橋は実際幽霊のたくさん住んでいる場所であります。
これは私の隣に住んでいる爺さんの実験談であるが、爺さんなかなかのカナブイ(幽霊などが見える人)で、ある日与那原付近字宮平に用事があって出掛け、午前二時頃帰路についたら、にわかに雨が降り出した。そこで所持の唐傘をかぶってその字の小路出口に差し掛かるや、年の頃二十前後、学生らしい女が雨に濡れて立っている。よくよく見ると色白の美人で左の手で顔を覆っている。爺さん、不思議に思って声をかけた。
「お前さん今頃何の子細があって雨に濡れて立っている?」すると女は気味の悪い笑みを洩らして「爺さんどうか傘の下に入れて下さいよ」と言う。
気性の強い爺さん、ことに幽霊には経験の多いことだからビクともせず「さあさあ勝手にお入り」と言ってこの怪しげな女学生と合い傘で、那覇へ向けズンズン行くと、今しも一日橋のたもとに来るや女は爺さんに向かい「ありがとうございました。実は私字宮城某の娘でござりますが、婚礼の時六円のお金を本箱に入れてありましたから、このことを母に告げて下さい」と突然(だしぬけ)にかようなことを言った。
見れば寸分違わぬ人間のようで、真逆に爺さんも始めから幽霊と思っていないが、いろいろ話すうち、いかにも解せず怪しな節々が多いので、変な奴だと考えた。あるいはこの辺りの狂女ではないかとなおも試みる中、奇怪、奇怪、今まで女学生に見えた女は忽然と形を変わし、白髪の背のヒョロ高い婆に化した。爺さんはここを大事に度胸を据え、「俺に何の恨みあってか知らぬが思うことあらば白状せよ。みだりに人を迷わさんとは何事なり」と怒鳴った。すると白髪の婆はゲラゲラ笑い出し、口の中より蛍火を吐き出すかと思うと、たちまち大入道に変し、橋の下に飛んで去った。
爺さんは冷や汗をかいて口の中で南無阿弥陀仏を唱えていると、はるか向こうに焚火(たいまつ)が二つ現れ、上になったり下になったり消えたり明ったり、いろいろの芸当を始める。爺さんは夢中になりて南無阿弥陀仏を唱えているうち、焚火(たいまつ)は牛に化けたり馬に化けたりさまざまなことをやって、しまいにまた元の女学生に変じて爺さんの前に現れた。
爺さんは死に物狂いの勇気を出し、容赦はならじと幽霊の襟元を握り、「さあ俺に何の恨みがあるか」と叱咤して、一生懸命南無南無とやっている。しばらく南無南無とやっていた爺さんフト目を開いて見れば、その前に饅頭傘をかぶっている色の黒い男が立っている。
さてはこれに化けたかと爺さん手拳固めて一本参らんとするを、饅頭傘、大いに驚き、数歩後によけて、「これは爺さん、俺は郵便配達でござる」と言う声に気が付きて辺りを見れば、いつの間にか夜は白々と明け放れ、前に立っている男はまさしくこの配達夫である。
爺さんは夕べの不思議を語り、配達夫と別れて帰ったが、爺さん幽霊の悪戯にあうこと一度や二度ではないという話である。(竹雪生)
投書歓迎 本社怪談奇聞係宛てのこと
投書家へ 幽霊探見談(糸満町ヒマラヤ生)、落雷奇聞(宮古生)は見合わせます。
怪談の舞台 一日橋
国場川に架けられた橋。琉球王府時代、この一帯の川は板敷川(イチャジチガー)と呼ばれていたため、橋も板敷橋(イチャジチバシ)と呼ばれました。この橋の架かっている場所は南風原や与那原から首里への要路で、古くから木橋が架けられていましたが、1689年に石橋に改修されました。一日橋の名は1511年に尚真王の養父花城親方守知(はなぐすくうぇーかたしゅち)の葬送に際し、壊れた橋を一日で修繕したから、という説があります。またイチャジチバシからイチニチバシに変化したという説もあります。
一日橋は古くから幽霊が出る場所として知られており、明治から大正時代の琉球新報で何度か幽霊譚が取り上げられています。
(次回は9月10日に掲載)