孫崎享講演会が11月1日午後6時から那覇市のパレット市民劇場で開催される。第2部は、「音楽からみたウクライナとロシアの関係」と題した演奏会。演奏を披露するピアニストの浜野与志男さんに寄稿してもらった。
プロコフィエフが完成させた9曲のピアノ・ソナタのうち、第二次世界大戦中に書かれた第6~8番は「戦争ソナタ」として知られている。第6番では進水する真新しいフリゲート艦、第7番では歩兵隊の進撃と大殺りく、第8番では砲撃で焼き尽くされた土地というように、恐ろしい光景が浮かぶ。ロシアによるウクライナ侵攻と重なってはいないだろうか。
ソビエトを代表する作曲家に数えられるプロコフィエフは現在のウクライナ、ドネツク州ソンツィフカに生まれた。農業に適した肥沃(ひよく)な土地が広がり、地域に根ざした生活が営まれたこの一帯で、ロシア軍の猛攻撃を受けて村や町が崩れていく。
ロシア帝国でも革命後のソビエトでも、あらゆる民族問題はタブー視され凍結されたままとなった。プロコフィエフが20代で書いた歌詞付きの行進曲には「ヴィスワ川からウラル山脈まで広がるロシア…」とあるが、プロコフィエフにとって「ロシア」とは地続きの祖国であった。第二次世界大戦でも、ウクライナ出身の兵士はロシア各地方出身の兵士と肩を並べてナチス軍と闘った。
ロシアのウクライナ侵攻まで数カ月となった2021年の暮れ、ハルキフから日本へ移り住んだ一家と話したことがある。「ウクライナではファシズムが横行している」。国全体でウクライナ語の使用が強要されロシア系住民の地位が危ういという文脈だったが、ロシア語を母語としてロシアになびくマイノリティの彼らから「ファシズム」という強烈な言葉が出たことに唖然(あぜん)とした。
モスクワに住む、今年94歳の祖母は第二次世界大戦中に兄をなくし、モスクワの南東約千キロのオレンブルグ州に疎開し厳しい生活を送った。語り継がれる大戦の記憶を義務教育でも徹底的に教えられたソビエト育ちのロシア人にとって、華々しい戦勝神話は日常の生活難と折り合いをつけるための命綱のようで、「ファシスト」は最悪のレッテルだった。ソビエト・ロシアの歴代政権はこの心理を煽(あお)って利用してきたのである。
ソビエトでは数十年にわたる言論弾圧の末に人々が皆塞(ふさ)ぎ込(こ)み、キッチントークがあらゆる情報交換の手段となった。現在ベルリンに住むウクライナ人作曲家シルベストロフ(1937年生)は、言葉で発することの叶(かな)わない様々(さまざま)な考えを音楽に託す。若き日に前衛作曲家として称賛されたものの、すでに1970年代から独自の道を進み、音型が波打ち、あたかも思考が可視化されたような楽譜を生み出した。今世紀に入って発表し続けている作品でも、強く打ち出される音はなく、トレモロ(音の交互の反復)や揺らぐようなミニマルな音型を多用している。シルベストロフをはじめ戦後ソビエトの音楽には、上から喧伝(けんでん)される敵も味方もなく、社会を俯瞰(ふかん)するような第三の視点を聴くことができる。
プーチン体制は早くも2011年頃から綻(ほころ)びを見せ、選挙不正を繰り返し、反体制派を封じ込めることで延命を図ってきた。実社会での支持率は20%を割り込み、ウクライナへの攻撃が体制生き残りを賭けた博打(ばくち)だったと政治評論家は断じている。デジタルネイティブの若い世代はプロパガンダに染まらず戦争への反発を強めると期待されたが実態は複雑だ。良い職を得るには政権のナラティブを受け入れるほかなく、現体制が下から壊れるシナリオは未(いま)だに描けない。一昨年の秋に徴兵を逃れて多数のロシア人が国外へ亡命したこともまた事実だが、迷わずに生活基盤を捨てられるほど蓄えのある人は限られていた。
ソビエト崩壊直後の希望に湧いた1990年代にあってさえロシアでは政治論争が広がりを欠き、新しい社会はみるみる治安機関中心の勢力に呑(の)まれた。人命を顧みない価値観は大国ゆえの呪(のろ)いだろうか。一人ひとりのロシア人に、そして私たち自身に問いを宛てて、シルベストロフの音楽を弾いていきたい。
はまの・よしお ピアニスト。日本とロシアにルーツを持つ。東京芸術大学音楽学部を経て英国王立音楽大学大学院にて修士号。ウクライナ難民支援・復興支援に携わる団体や個人の活動をサポートしている。