途絶えた手紙…それでも「迎えに来るはず」と信じていた 戦争孤児となった男性が語る思い


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学童疎開時を振り返り「自分にも家族から手紙が来ないだろうかと待ち遠しかった。(手紙が届き)うれしかった」と語る糸満盛成さん=6日、那覇市の自宅

 学童疎開先の熊本県で沖縄の家族らから受け取った手紙やはがき計69点を那覇市歴史博物館に提供した糸満盛成(せいせい)さん(87)=那覇市=が6日、報道各社の取材に応じた。1945年1月を最後に家族の手紙は途絶え、それでも「自分を迎えに来るはず」と無事を信じていた盛成さん。47年に帰郷した際に初めて家族全員の戦争での死を知った。戦争に家族を奪われ「悔しかった」と振り返った。

 盛成さんは現首里桃原町の出身。5人きょうだいの末っ子で母オトさんらからかわいがられた。厳しかったという父盛定(せいてい)さんは、盛成さんが国民学校高学年の頃に病死した。44年に疎開した時、那覇港でオトさんらが「元気で行ってきて」と送り出した。熊本での生活は「心細かった」。寒さとひもじさ、言葉の違いに苦労した。

 心の支えだったのが家族や友人らからの手紙。「早く来ないかなと待ち遠しかった」。45年1月27日にはオトさんから手紙が届き、正月の様子などがつづられていた。「からだたいせつに大元気にして。手紙送るのが私わたいへんおもしろいですよセイチャン。又話わ後にのこしますね」(原文のまま)。しかしその後、「手紙を待っていたけど来なかった」。沖縄が壊滅的な被害を受けたとの情報が伝わり、「みんな元気でいて」と願った。

 帰郷して数日後、叔父から家族全員の死を知らされた。長兄盛章(せいしょう)さんは防衛隊として国頭村で、オトさんらは南部で亡くなった。次兄の盛起(せいき)さんは南洋のブーゲンビル島で戦死した。家族の遺骨はほとんど見つかっていない。

 戦後、30歳で妻キヨさん(86)と結婚し、子ども4人、孫10人、ひ孫3人に恵まれた。にぎやかな日々に「幸福です」とほほ笑む。それでも時々昔を思い出して寂しくなり、たんすにしまった手紙を読み返した。「戦争は嫌だな」。ぽつりとつぶやいた。

 那覇市歴史博物館での手紙の展示は28日まで。