prime

紅イモの知名度 全国に 澤岻カズ子さん(御菓子御殿会長) 〈ゆくい語り・沖縄へのメッセージ〉22


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
御菓子御殿の澤岻カズ子代表取締役会長=30日、御菓子御殿読谷本店

 沖縄を代表する食品として紅イモの知名度を全国に広げた御菓子御殿(旧社名・お菓子のポルシェ)が、今年で創業40周年を迎えた。沖縄の観光土産の代名詞となる同社の「元祖紅いもタルト」も、開発当初は原料となる紅イモの確保も品質も安定せず、販売は試行錯誤が続いていた。

 当時の沖縄観光の現場は、観光客を満足させる地元の土産物がないことに頭を抱えていた。全国から沖縄に観光客を送り込んでいた航空会社が紅いもタルトに目を付け、1995年から機内食に採用されたことが爆発的なヒットの契機となった。

 創業者の澤岻カズ子さん(72)は「時間はかかったが、それまで大切に育ててきたことで沖縄の銘菓になった」と振り返る。

 ―沖縄土産の代名詞にもなる「紅いもタルト」開発の経緯を聞きたい。

 「1986年に、読谷村商工会が『イモのお菓子を作ってもらえませんか』と私の所に話を持ってきたのが始まりです。2カ月後の沖縄の産業まつりに読谷の特産品として出品したいという急なお話でしたが、商品開発自体は意外と早く進みました。今の村役場の辺りにイモ畑があって、農家のイモ収穫を待っている間に風でイモの葉っぱがざわざわと揺れているのを見て、イモの形をした生地に紅イモのペーストを波打つように絞ってみようとひらめきました」

 「ただ、品質の良いイモがあればよかったのですが、村は紅イモで村おこしと掛け声を上げてはいましたけれど、当時は読谷にイモがほとんどありませんでした。イモもない、農家もいない。ないない尽くしでスタートしました」

イモない、農家いない そこからのスタート

「紅いもタルトができるとかるかん、シュークリームと次から次にひらめきがあって、紅イモはお菓子の素材にとっても適していることが分かった」と読谷村の特産品づくりを振り返る澤岻カズ子会長=9月30日、御菓子御殿読谷本店(田中芳撮影)

 ―紅イモって昔から読谷で生産が盛んなイメージだった。

 「戦前はイモの産地として知られていましたが、その頃はイモのニーズが無く農家が自分で食べる分か、農連市場で少し売るぐらいの量しか作っていなかったんです。品質の問題もあって、イモを煮て割ってみないとお菓子にできるだけの紅色が付いているかどうかも分かりませんでした。買ってきたイモで使えるのはわずか3分の1くらいしかありませんでした。おいしさを伝えるきれいな紅色を出すため、村には農業試験場と連携して品種改良にも取り組んでもらいましたが、長い年月を要しました。仕事が特に忙しい時期だったので、自分自身のことであればやめていました。読谷の村おこし事業として引き受けた以上、成功するまで後に引けないという覚悟でした。売れるようになるまで商品開発から10年ほどかかりました」

 ―日の目を見たきっかけは。

 「開発から10年くらいたった頃、幸いなことに飛行機の機内食として採用されました。航空会社も沖縄発の飛行機には沖縄の食品を提供したいと思っていたそうなんです。95年から99年まで4年間、これが多くの人に食べてもらうチャンスになりました。飛行機で食べた観光客が買いに来てくれるようになり、読谷の店舗前は観光バスが止まるルートになっていきました」

 ―ポルシェ洋菓子店に始まった御菓子御殿は今年で創業40周年を迎えた。

 「結婚後、日本復帰と同時に嘉手納ロータリーでレストランを始めました。復帰に伴って軍雇用員の解雇が多くなり、軍でコックやベーカリーをしていた友人たちを雇用して始めました。レストランの一角で作りたてのドーナツやケーキ、アップルパイを買えるようにしたのです。それが大変当たりました。私は料理の技術もありませんでしたが、毎日携わっているうちにお菓子のことを覚えていきました。レストランは4店鋪まで広げたけれど、夜中までの営業で子どもたちを育てながらの仕事は負担が重く、レストラン経営はやめてそこで覚えたお菓子の卸販売をやることに決めました。レストランで一緒にお菓子を作っていた主婦たちと3、4人で、20坪くらいの読谷村内の小さな工場からスタートしました。そこから40年になるわけです」

お菓子はいつの時代も 人を幸せにしてくれる

有限会社ポルシェを法人登記した翌年、読谷村大木に工場・店舗併設の新社屋が完成した頃の澤岻カズ子さん=1991年

 ―小さな洋菓子店がお菓子の城を建てるほどの成長企業になった。

 「40年前の読谷村にはスーパーもコンビニもありません。『売れた分だけお金をいただくので商品を置かせてもらえませんか』と地域の雑貨店に委託販売をお願いしました。出身の読谷村からスタートしたことで皆によくしてもらい、販路も中北部に順調に広がっていきました。工場も手伝いながら、商品を配達するのも、販路開拓も全て自らやりました。実はレストランを売却した際にいくらかお金が残ると思いましたが、当初の設備投資が大きく、借金の方が残ってしまいました。借金を早く返すにはどうすればいいか、一生懸命に考えるようになりました。あの時のマイナスがなければここまで頑張っていなかったですね」

 「2001年6月に念願の工場直売店である御菓子御殿恩納店が完成しました。紅いもタルトの製造ラインを見学でき、できたてのお菓子を食べてもらえる施設です。首里城の正殿を模した建物に、沖縄のお菓子がいっぱい詰まっているという夢見てきた店舗の実現でした。ところがオープンから3カ月、米中枢同時テロが起きたのです。観光客が激減し、失意に暮れていましたが、何と多くの地元のお客さまが来店して盛り上げてくれました。そのおかげで大きな痛手無く、逆にこの励ましが後の私の励みになりました。やはり地元に愛される店作りをしてきて良かったという思いでした。そして観光はやはり平和あっての産業です」

 ―沖縄にこだわる思いとは。

 「沖縄の観光土産には沖縄の物がないと言われてきました。本土で作って、包材だけを沖縄の物らしく変えて売っている製品ばかり。沖縄の製品と思って裏を見たら本土で作られたものだったという声を聞いてきました。私たちは沖縄の素材を使って保存料・着色料を使用していない体にいいものを、沖縄で作ることにこだわってきました。紅いもタルトも売れるまでには随分時間がかかったけれど、これまで大切に育ててきたことでここまでの銘菓になりました」

 「農家を育てながら、役場も商工会も協力して村民一丸となったことで、今や沖縄のお菓子は紅イモ菓子と言われるぐらいにまでなりました。お菓子の技術のなかった私がここまで携わってこられたことはとても不思議な思いがしますが、常に温かい人たちの協力がありました。お菓子とはいつの時代も、人に夢を見させ、人を幸せにしてくれるものだと思います」

聞き手 経済部長・与那嶺松一郎

たくし・かずこ

 1946年11月9日生まれ、読谷村出身。レストラン経営を経て、79年に読谷村でポルシェ洋菓子店を創業し、86年に読谷村の村おこし事業の一環として紅イモを使った商品の開発に挑戦し、試行錯誤の末「元祖 紅いもタルト」を開発した。2001年の恩納店を皮切りに、観光工場の御菓子御殿を県内各地にオープンさせる。15年に社名を「お菓子のポルシェ」から「御菓子御殿」に変更し、長男・英樹氏が社長を継いで自身は会長就任。15年6月から4年間、読谷村観光協会会長を務めた。御菓子御殿は17年度ふるさと企業大賞(総務大臣賞)受賞するなど地域産業の振興に貢献している。

取材を終えて 逆境に負けない明るさ

経済部長・与那嶺松一郎

 育ての親である祖母に経済的な負担を掛けまいと中学3年から高校卒業まで続けた新聞配達に、澤岻カズ子会長の原点はあるという。毎朝5時に自転車いっぱいに新聞を積み込み、雨の日も風の日も欠かさなかった。それも祖母のために朝食を作ってから配達に出掛けたというから頭が下がる。

 それでも「毎日が楽しかったという思い出しかない。優しい祖母たちの家庭に育ったことで今の私がつくられていることが誇り」と懐かしみ、苦労話は一切しない。経営していたレストランを譲渡した際は負債が残ったが、「どうすれば借金を早く返れせるかを一生懸命考えることでアイデアが出てきた」と商売の原動力にした。

 御殿が建つほど爆発的に売れた「紅いもタルト」も雌伏の期間は長かった。逆境にくじけることのない前向きな明るさは名だたる創業者に共通している。

(琉球新報 2019年10月7日掲載)