「あの時」と同じように首里城が燃えている…炎上を2度目撃した87歳の思い 「もう一度再建し、沖縄の心発信を」


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
首里城が米軍の攻撃で燃え上がっていた当時の様子を語る吉嶺全一さん=1日午後、那覇市首里金城町の一中健児之塔前

 「ぐしくが燃(む)えとーさー」(お城が燃えている)。祖母のウシさんは手を合わせ泣いていた。1945年4月、米軍の攻撃で首里城が燃え、夜まで空が真っ赤に染まった。当時13歳だった吉嶺全一さん(87)=那覇市首里金城町=の自宅はその2日後に米軍の爆撃で焼失したが、その時は、祖母が泣かなかったのを覚えている。

 戦闘は間近に迫っていた。吉嶺さんは南部に逃げ、糸満市摩文仁で米軍に捕らえられた。

 戦後、米資本の企業で働いた縁で、80年代に沖縄戦を経験した元米兵らが沖縄で開いた慰霊祭を手伝ったことがある。

 交流はその後も続き、友人となった米兵の1人と復元された首里城を訪れたことがある。友人は「戦争は人を獣にする。あんな戦争は二度としたくない」とつぶやいた。

 吉嶺さんは30年近く平和ガイドをボランティアで続けている。国内外から首里城を訪れる観光客も増え、沖縄の文化、アイデンティティーを発信する貴重な場所になったと感じていた。

 31日朝方。自治会による火災発生の放送で異変に気付いた。外に出ると「あの時」と同じように首里城が燃え、火の粉が舞っていた。胸のざわつきを抑えることができなかった。「もう一度首里城を再建し、沖縄の心を発信する場になってほしい」と吉嶺さんは願っている。

 元衆院議員の古堅実吉さん(90)=那覇市=も首里城の破壊を目の当たりにした。43年に沖縄師範学校に入学したが、鉄血勤皇隊に動員された。正殿の背後に掘られた「留魂壕」を陣地とした。首里城の地下に掘られた32軍司令部壕の構築にも加わった。首里城は米軍の標的となり、破壊された。

 92年に復元された首里城正殿を初めて見た時は、その鮮やかな色に違和感を感じたという。戦前に見た首里城の姿との違いが大きかったからだ。しかし、時間がたつにつれ、首里城は「県民の心の支えだ」という気持ちが強まっていった。

 31日朝、テレビのニュースで首里城が燃えている様子を目にした古堅さんは、にわかには現実だと信じられず、戦中の映像かと思ったという。「首里城は志ある人たちの努力で、沖縄の心を取り戻そうと造られた。沖縄は戦後74年でここまで歩いてきた。知事をはじめ沖縄の心を結集し、再建してほしい」

(島袋良太)